リチャード・ニクソンの愛

 「マリファナを巻いた1本のジョイントは、1杯のウィスキーよりも1000倍いいね。リラックスできるし、頭の中でアイディアがクリアーになってくるのさ」

・・・と語ったサッチモことルイ・アームストロングは、毎日ハーブでキメていたマリファナ愛好家で、ハーブの合法化を嘆願する手紙をアイゼンハワー大統領に送ったこともあるらしい。

そのサッチモと、大統領になる前のニクソンとの間で、こんな出来事があったとか。。。

 1950年代、ヨーロッパのツアーから帰国する際にサッチモは、当時は"ひら"の国会議員だったリチャード・ニクソンと同じ飛行機に乗り合わせた。ジャズの大愛好家であるニクソンはすぐにアームストロングに気づき、飛行中ずっと彼のそばにいた。感激をあらわにして、「あなたを国家の宝のように思っています」と語り、そして、「私こそがあなたの一番のファンです!」と宣言するのだった。
 ニュー・ヨークに到着すると、ニクソンは彼のアイドルに向かって、何か私があなたにお手伝いできるようなことはないでしょうか?と訊ねた。
 そしてそこでサッチモは、その絶好の申し出をとらえたのだ―片方の肩が痛むんだ、ということを口実にして、ニクソンに荷物を持ってくれるように頼む……2つのトランペット・ケイス……ハーブがぎゅうぎゅうに詰まったやつ、を。ニクソンは急いでそれらを持ってやり、当然のことながら(国会議員パスで)税関を何ごともなく通過した。
 と、そういう経緯で、のちに容赦ないドラッグ撲滅運動を宣言することになる未来の合衆国大統領は、カナビス愛好者の"雌ラバ(運び屋)"の役目を果たしたというわけだ。"なんてすてきな世界なのだろう(What a Wonderful World)……"。

(ブリュノ・コストゥマル著、鈴木孝弥訳『だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ? 〜ジャズ・エピソード傑作選』「ニクソン、アームストロングの"ラバ"になる」より)

だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?―ジャズ・エピソード傑作選

だけど、誰がディジーのトランペットをひん曲げたんだ?―ジャズ・エピソード傑作選

しかし、ニクソンは果たしてサッチモを前にしてのぼせあがり、知らずして「ラバ」役をつとめたのだろうか。
ニクソンサッチモの荷物にマリファナが詰め込まれていたことを知らなかった」という前提に立てば、ジャズ・ジャイアンツの威光を前ではかのニクソンも吹けば飛ぶようなマヌケ、ということになるかもしれない。
だが、サッチモの大ファンであり、後に麻薬取締局を創設するニクソンのこと、もしサッチモマリファナを運んでいることを知っていた上でのことだとしたら・・・

乱れ雲

目を伏せ、見上げ、睨み、顔を背け、振り返る。

すれ違い、行き交い、見返し、包み込む視線。

まなざしの映画。


























じぶんにとって、最高の映画監督(のひとり)である成瀬巳喜男の、最高の作品(のひとつ)である『乱れ雲』。

『乱れる』高峰秀子は濡れていなかったが、『乱れ雲』の司葉子は、加山雄三が見つめるまなざしと武満徹の官能的な旋律によってその瞳を潤ませている。

デコちゃんは加山雄三のことをdisっているけど、成瀬の加山も、加山の成瀬も素晴らしいじゃないか。

あらくれの雨

成瀬巳喜男、といえば、雨。
ということを言っても、おそらく差し支えない。

成瀬の作品においてドラマが展開するとき、雨音が聴こえてくる、軒先や窓の外を見ると雨が降っている、というシーンには枚挙に暇がない。だから、枚挙するのはやめておこう。成瀬を幾つか見ていれば、見たことのない成瀬に出会ったときでも、あ、そろそろ雨が降りそうだ、ということがわかるはず。成瀬によってできた映画的古傷が疼くのだ。

ところが、『あらくれ』のにわか雨の唐突さはどうだろう。

主人公の高峰秀子演じるお島さんは、最初の婚礼の晩に逃げ出し、嫁いだ缶詰屋では甲斐性のない夫・上原謙に愛想をつかす一方で、お島の減らず口と勝ち気な性格も災いして愛想をつかされた挙句に追い出される。そして、家族のもとに出戻りするが、兄・宮口精二の借金のカタに雪深い山奥の宿屋に置き去りにされ、女中として奉公していると、宿屋の主人・森雅之に見初められて妾にされるも出奔、東京で洋裁の仕事をするうちに知り合った加東大介洋服屋を起業し、一度は首が回らなくなりルンペン寸前の宿無しになるが、なんとかV字回復して繁盛させる。しかし、上原謙時代から因縁のあった三浦光子に加東大介を寝取られ、再び出奔・・・という数奇な運命をたどる。

いくつかの見せ場がある中でも、この映画の「華」は高峰秀子の本領発揮ともいうべき格闘シーンだろう。
注文の納期に遅れそうなのに店先で職人と将棋をさしたりといっこうに真剣にしごとをしようとしない加東大介。業を煮やした高峰秀子は、室内にもかかわらずホースを引っ張りだしてきて加東大介に向かって放水(!)する。

また、商売が成功してからのこと、成金趣味の加東大介がお花の先生を雇って高峰秀子に習わせようとするが、ある日外回りで高峰秀子の帰りが遅くなったときに、加東大介はお花の先生と生け花しながらいちゃいちゃでれでれする。それに気づいた高峰秀子が、加東大介に対してマウントポジションをとってボカスカ殴ったり噛み付いたり。
そして、終盤、高峰秀子加東大介の後をつけ、彼に囲われている三浦光子(上原謙時代には、彼と「幼馴染」ということで色目を使っていた因縁のある女)の妾宅に乗り込み、「お辞儀はこうしてするもんだよ!」と喧嘩をふっかけ、素手や素足、箒などを駆使してしばき倒す(成瀬や小津は、小さな仕草だけで映画を駆動させることができるという点で、真の意味でのアクション映画を撮れる映画監督だと思ふが、『あらくれ』はそれどころでなくいわゆるアクション映画と化している!)。

そうやって三浦光子をひととおりしばき倒すと、雨が降り始めるのだ。
恐れをなした三浦光子が「誰か、誰か来て!」と部屋から庭へと逃げ、作品中でもいちばんの修羅場が収束しかけたときに突然訪れる、にわか雨。成瀬においては例外的なバイオレンスの後に、どんなドラマが、どんな叙情が待っているのかと、わずかばかり訝しく思う。

高峰秀子は、妾宅を出て、雨の中を傘も差さずに歩いてゆく。その姿を後ろから前からカメラは引き気味にとらえるが、ふと店先に雨宿りしたときにバストショットになる彼女の表情はどうだろう。どこを見るでもなく視線はうつろで、幾分か困り果てた思案顔だ。この映画の中で、彼女がこんな表情をしたことがあっただろうか。
これまで成瀬的な雨とは無縁かのように見えた『あらくれ』で突然降り始めた雨は、放浪の身分を経た後に商売を成功させ、自分の家を持てたにもかかわらず、それも束の間、成功と家庭を捨てて独り身でスタートするお島に再び降りかかる試練のようにも見える。

雨宿りもほんの数秒のこと、思い立って歩き始め、通りかかった雑貨屋に入ったときには髪も着物も濡れている。
店先に並ぶ傘を求めた後、店の電話を借りて自らの洋服店に電話する。はじめ、使いの小僧が電話に出るが、パターナーも仕立てもやる職人の仲代達也を呼び、店を出て独立しようともちかける。温泉にでも行ってゆっくりしがてら、これからの算段をしようと話すと、腕に自信のある仲代達也ものってくる。
電話を終え、傘のお釣りを渡そうとする店の主人に「いいですよ、電話代ですよ」と断り、傘を差して店を出、歩き始める。やや斜め下から仰ぎ気味に高峰秀子をとらえるカメラは、歩き始めたときは少しだけ伏し目だけだった彼女が、まっすぐ前を向き、あっという間に表情が晴れてゆくのを逃さない。あとは次に向かって進むだけ、傘をさしたお島は、もう雨に濡れることはない。まっすぐ続く道を歩いてゆく後ろ姿には、もはや躊躇いなど残っていない。

放浪流転を繰り返すお島=高峰秀子にとっては、加東大介との訣別も数ある別れのひとつではあるが、ようやく手に入れたものを手放すのは初めてのことだろう。たしかにこの雨は見る者にとって予期せぬものではあるが、訣別の後、新たな一歩を踏み出すドラマチックな瞬間を雨で迎えるのは悪くない。そして、試練の雨が、お島が傘を手にした後、祝福の雨へと変わったかのように見えるところに、成瀬による雨の演出の真骨頂がうかがえる。

・・・ちなみにWikipediaによると、1957年公開の『あらくれ』は18禁の成人映画に指定されていたらしい。
特にヌードがあったりセックスのシーンがあったりするわけではないが、高峰秀子が女中をする宿屋で、風呂からあがって髪をといているところに入浴しに来た主人の森雅之に無理やり抱きすくめられ、屋外から窓越しの引きの画面になったところで、二人の姿が柱の陰に消え、すると屋根に積もった雪がどさっと落ちてくるというギャグのようなお色気描写はあった。また、宿屋の女将を色にもつ志村喬にどさくさで胸を触られて「大きいね、このひとのおっぱい"も"」と言われたり、夫となる加東大介の性欲が強すぎて高峰秀子が「(しごとも夜のおつとめも)両方はつとまんない、からだじゅうがだるい」というような趣旨の発言をしたり、あるいは三浦光子との喧嘩で「締りが悪い」と罵られたりと、台詞にもふんだんに下ネタが盛り込まれている(脚本は水木洋子)。たしかに、オトナ向けの映画と言えなくもない。とはいえ、『乱れ雲』や『鰯雲』など幾つかの作品のように「濡れて」はいないのだが・・・

アニュータ、気をつけて

チェーホフ『アニュータ』(松下裕訳)より

 「右肺は三つの部分から成っている……」と、クロチコーフは暗記する。「その範囲!上部は前胸壁で第四、第五肋間に達し、側面では第四肋骨に……背後はスピナ・スカプラエ(肩甲棘)に達する……」
 クロチコーフはたったいま読んだところを思い描こうとして、天井を見上げる。けれどもはっきりとは想像できなかったので、チョッキの上から、上のほうの肋骨を手で探ってみた。
 「肋骨ってやつは、ピアノのキーのようだな」と彼は言う。「何番目か、ごっちゃにしないようにするためには、どうしても慣れておかなくては。人骨や生体でよく研究しなけりゃならんなあ……。おい、アニュータ、稽古台になってくれないか!」
 アニュータは刺繍の手を休め、上着を脱いで、背すじを伸ばす。クロチコーフは彼女と向かい合って腰かけ、むずかしい顔つきをして、肋骨を数え始める。
 「ふむ……。第一肋骨には直接さわれないんだな……。鎖骨の陰になってるからな……。ほら、これが第二肋骨だ……。なるほど……。これがほら第三……。これがほら第四……。ふむ……なるほど……。どうしてそんなに体を縮めるんだ」
 「手が冷たいんですもの!」
 「さあ、さあ……死にやしないよ、くねくねするんじゃない。そうすると、これが第三肋骨で、これが第四、と……。見かけはずいぶん痩せっぽちのくせに、あばら骨はなかなかわからないんだな。これが第二で……これが第三、と……。いや、これじゃアこんがらがって、はっきりしない……。書いてみなくちゃ。おれの木炭筆はどこだったかな」
 クロチコーフは木炭筆を取って、アニュータの胸に、何本かの平行線を、ちょうど肋骨の上に書く。
 「これでよし、と。何もかも、手に取るようにわかるぞ……。さあ、これなら打診もできるし。ちょっと立ってみてくれ!」


ん?これは……おっぱい目当て?!
「これがほら第三……」の「……」という無言の間にアニュータの体をなめまわしているだろう、明示されない視線や手つきがいやらしい。
そして、木炭筆で……ああして……こうして……って、変態!


六号病棟・退屈な話(他5篇) (岩波文庫)

六号病棟・退屈な話(他5篇) (岩波文庫)

デコちゃんとマキノの映画渡世(阿片戦争編)

吉屋信子の原作を石田民三が映画化した『花つみ日記』に、高峰秀子が女子生徒の役で主演している。当時15歳のデコちゃんは、既に子役として何本も映画に出演してきたベテラン女優さんだからだろう、さすがに同世代の少女たちに囲まれると、いくら年齢的にはまだ少女とはいえ立ち居振る舞いがおとなびて見える。それが吉と出ているのだろう、女学校を辞めて舞妓になり、やがて病に臥せりながらも、絶縁した元親友の兄が出征するというので、あれは道頓堀の戎橋だろうか、路上に立って道行く女性たちに千本針を縫ってもらう・・・という少女の成長を見事に演じている。


映画は物語上、大阪の置屋の嬢はん(とうはん)である高峰秀子が東京からの転校生(清水美佐子)と親友になり天国でも一緒になりたいと誓い合うほど仲睦まじく過ごす前半と、二人が共に慕う先生(葦原邦子)をめぐる行き違いで絶交してからの後半に大きく分かれる。夏服の白いブラウスに白い帽子、乱反射する川の水面、ひとが行き交う路上、バスの窓枠までが太陽の光を浴びて白が眩い前半、そして、衣替えした冬のセーラー服を来た女子生徒たちに、制服を舞妓の衣装に着替えたデコちゃんと、暗さの中での可憐な華やかさが際立つ後半という具合に、画面から受ける印象も大きく様変わりする。デコちゃんの衣装が、制服→舞妓の着物→寝巻きと変化してゆく衣装劇としても魅力的だった。


高峰秀子の追悼特集アンコールということで『花つみ日記』の後に上映された『阿片戦争』、この作品に出演した頃のデコちゃんは、18歳か19歳ぐらいか。『花つみ日記』の4年後くらいになるが、デコちゃんはむしろ『阿片戦争』での方が幼く見える。
戦前・戦中のマキノ雅弘(正博)作品には、『昨日消えた男』や『阿波の踊子』など幾つかデコちゃんが出ているものがあるが、どうもマキノのデコちゃんというと「かわいそうな子」が多い気がする。幼い印象はそのことと関係するかもしれない。
阿片戦争』のデコちゃんも、盲目の少女で姉の原節子と生き別れになったところを阿片中毒のルンペンに捕まり、僅かな阿片と引き換えに悪いひとたちに身柄を引き渡され、しまいには悪党たちといっしょくたにされて処刑されかけるという散々な目にあう。
自伝にも、『阿片戦争』に関する言及はあるが、この頃に関する記述では、山本嘉次郎黒澤明大河内伝次郎谷崎潤一郎のことが目立つものの、監督・マキノについてはあまり触れられていない。


♪風は海から吹いてくる
  沖のジャンクの帆を吹く風よ
  情あるなら教えておくれ
  私の姉さん どこで待つ
 昭和十八年一月に封切りされた大作「阿片戦争」の主題歌である。
 演出は、マキノ正博。主演の林則徐には歌舞伎界から市川猿之助が起用され、英国人には、青山杉作、鈴木伝明が赤毛のカツラで登場、原節子と私は姉妹の役で出演した。私の役は盲目という設定だったから、まばたきが出来ないのが辛かった。まばたきというものは、するまい、と意識すればするほどパチクリとやりたくなる始末に負えないものである。「阿片戦争」での私の収穫は、「丸山定夫」という優れた俳優と共演したことだった。丸山定夫とは昭和十四年に「われ等が教官」という映画で父娘になったけれど、そのころの私はまだ十五歳のチビで、彼の演技の緻密さなど分かるはずがなかった。「阿片戦争」では阿片中毒の浮浪者に扮したが、「芸というのはこういうものか」と私は教えられ、うなった。以来、丸山定夫杉村春子についで、私の尊敬する俳優になった。といっても、名優丸山定夫の生命は、それから三年も経たぬうちに消えてしまった。昭和二十年八月六日、慰問先の広島で原子爆弾に遭い、「熱い、熱い」と言いながら、お寺の井戸掘で水をかぶりながら絶命したという。

高峰秀子著『わたしの渡世日記(上)』より)


わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈下〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈下〉 (新潮文庫)


「十五歳のチビ」が演じた『花つみ日記』の少女役はよかったと思うが、それはさておき、ともかく女優・高峰秀子には監督・マキノ雅弘はさほど大きな影響を与えなかったのかもしれない。共に自伝のタイトルに「渡世」が入っている二人は、次郎長三国志になぞらえれば、清水と黒駒あるいは保下田、ほどではないかもしれないが、清水と身受山ぐらいに離れたところにいたのか。マキノに登場する女優たちの多くが「マキノの女」とでもいおうか、円を描くように歩く足さばきや、畳の上にしなだれる所作など、振り付けられたマキノ一流の型を演じ、それが演出にぴったりはまるが、高峰秀子はそのような型を嫌って個性を際立たせようとする(というのはわたしの印象だけれども)から、二人は合わなかったのかもしれない(ちなみに、『阿片戦争』での原節子は、高峰秀子との生き別れと再会、河津清三郎との月夜の逢瀬、夜会でのダンスなど、しっかりマキノの女優になっていた)。



(『わたしの渡世日記(上)』より、昭和13年原節子高峰秀子


それはそうとして、マキノ。
マキノの映画はしこしここつこつと見てきたつもりだけど、なにせ作った映画が二百数十本とフィルモグラフィがギネス級に膨大だから、たぶんまだ全体の四分の一ぐらいしか見てないことになる。となると、マキノのことはそれだけしか知らないということで、初見の作品で驚くようなことがあったって驚くこと自体は驚くべきことではないのだけど、それでも『阿片戦争』を初めて見てけっこう驚いた。


まず、中国人役を日本人が演じるのは同じアジア系だしいいとして、イギリス人役まで日本人が演じて日本語をしゃべっている。ハリウッド映画なら別に驚くことでは全くないのだが、テルマエ・ロマエのだめカンタービレから遡ること数十年前の日本映画にこんな大胆さがあったとは。しかも、イギリス人たちは皆、付け鼻をしているかのような鼻の高さ。そこそこ大きなスクリーンで16mmフィルムを見る限り、不自然な付けぎわは見えなかったが、あれは全部自前なのだろうか。


そして、円谷英二との特撮コラボと、大砲での爆撃など迫力ある戦闘シーン。アメリカ映画なら、ジョン・フォードなど、実際の戦争を撮影した映像を全面的に使った映画もあるが、そんなことしなくても特撮によって船や街が爆撃され破壊されるシーンでかなりいい線まで再現できることに、今更ながら新鮮な驚きを感じた。林則徐を演じる市川猿之助阿片戦争突入にあたっての演説をぶつシーンで焚かれるスモークなど、マキノというより円谷プロの作品かと思うところもあったほど。


更に、1943年のこの作品で、相当に大規模なオープン・セットが組まれ、その中でモブ・シーンがふんだんに使われていることには(見ながらニコラス・レイの『北京の55日』を思い出した)、これが本当に戦時中の日本映画なのかと目を疑った。映画会社だけは資金に余裕があったのか、あるいは、既に国全体で使えるフィルムに制限がかかっていて製作本数が絞られることで逆に人と金を集中できるようになったのか・・・等々、いろいろ考えてしまった。


というわけで、どうも不審というかマキノにしては例外的に思える点が多々あったので、マキノの自伝にあたってみた。


 『ハワイ・マレー沖海戦』の撮影中に、会社が、私にも急遽戦争映画を一本撮れと云って来た。兵隊に行ったこともない私が、戦争映画を撮れといわれたって―と思ったが、もう企画も決定してしまったんだという。
 題名は『阿片戦争』。八月からクランクインすることになった。『阿片戦争』の撮影直前に、私は渋谷区代々木富ヶ谷町に初めて家を買って移転した。
 『阿片戦争』は「国策映画」と銘打ってアングロサクソンと戦う中国広東の歴史を描くものであった。脚本はこれも小國英雄が書くことになったが、小國は、フィリピン戦線における日本軍の活躍を描く『あの旗を撃て/コレヒドールの最後』のロケーションのために、監督の阿部豊キャメラの宮島義勇や共同脚本の八木隆一郎と共にフィリピンに行ってしまった。
 そんなことから、急いで書いたらしく、脚本の出来がどうも良くない。これでは書き直さなければどうにもならない。で、誰れに書き直させればいいだろうかと松崎啓次プロデューサーが云うので、私は黒澤明を推薦した。黒澤明は当時まだ助監督だったが、すでに彼の才能には注目すべきものがあったし、たしか何本かシナリオも書いていたと思う。映画化はされなかったようだが―。
 私は黒澤明を箱根の強羅の旅館に連れて行ってカンヅメにし、『阿片戦争』の脚本を渡し、原作はD・W・グリフィスの『嵐の孤児』であることなどを説明して、書き直してくれるようにたのんだ。期待にたがわず、とても良いホンが出来上がった。中国のセットは私には全然解らないので、デザイナーの久保一雄に一任した。
 『阿片戦争』の主演は市川猿之助に決った。久しぶりの対面だった―マキノプロダクション時代以来の御無沙汰であった。
 長谷川一夫も出ることになったのだが、衣笠貞之助作品(『川中島合戦』ではなかったかと思っていたのだが、調べてみたらちょっと時代がずれるので、たぶん今井正と共同の『進め独立旗』の方だったかも知れない)の撮影が長引いて、長谷川一夫の身体がなかなかあかず、ギリギリ八月末まで待ったのだが、会社は市川猿之助を一と月しか借りておらず、とうとう長谷川一夫の出演はあきらめざるを得なかった。私が東宝へ来て撮った作品で、初めて長谷川一夫が抜けることになった。その代りに、河津清三郎坂東好太郎を借りて撮影を続けた。
 『嵐の孤児』の姉妹はリリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュが演じた。妹のドロシー・ギッシュが盲目で、二人は別れ別れになる。『阿片戦争』では原節子と高峰デコちゃん(秀子)が姉妹になり、デコちゃんが盲目の娘になった。
 この映画で、河津清三郎が馬に乗って、中国のアーチをギャロップで通り抜けるシーンがあった。もちろん、ここは馬術の心得のある人に吹替えをやってもらわなければならない。で、馬事公苑の先生にお願いした。
 ところが、アーチのところで、馬が恐がって止まってしまう。堀があるので飛び越して行くのが無理だということになった。しかし、アーチを通らないと、こっちは困る。とうとう私が河津清三郎の代役をやることにして、衣装を着て、馬に乗って一回やってみると云ったら、そりゃ無茶だ、と云って馬事公苑の先生が怒り出した。競馬の騎手に乗馬のことを教えているほどの大先生だから、その大先生に出来なかったことを、私が出来るはずがない、と云うのだ。
 当然と云えば当然だが、私は昔馬に乗ったことがあるんだと云って、「こらしょッ」とばかりに馬に股がって、そして、先生の見ている前で、アーチに向かって馬を走らせた。馬ならお手のもんですわ。
 アーチを通り越す前に、馬がどの地点で恐がって止るか、大体勘で解っていたので、その寸前に、私は手綱を輪にして馬の両目をパチパチッと殴った。馬には悪かったが、一瞬馬は目が見えなくなったために、堀もアーチも目に入らず、恐怖を忘れたはずだ。そこでパーッと追い込んだら、見事にスパーッと抜けよった。先頭の一頭が抜けたもんだから、あとに続く馬も全部うまくアーチを抜けた。
 ところが、馬が止まらないので、これには往生した。目が見えないもんだから、一目散に走る。やっとセットの塀のところで止めることが出来て、助かったのだが―。
 「それにしても、よく抜けられたなァ」と馬事公苑の先生にはほめられた。だが、馬の目を一瞬とはいえ潰したなんてことは云えない。さいわい、先生にも気づかれずに済んだ。
 もう一つ、この映画では、今でこそ云えるトリックを使った―呎数がちょっと足りなくなってしまって、アメリカ映画のネガを失敬して入れてしまった!アタマには『ベンガルの槍騎兵』、ラストには『シカゴ』の数カットを使用させていただいたのであった。
 『阿片戦争』の音楽は服部良一。服部良ちゃんと初めて組んだ作品だ。
 この映画は十二月中に仕上げた。私は、子供がボチボチ歩き始めていたし、なるべく家にいる時間をつくって、一緒に遊んでやりたかったので、仕事は出来るだけ早く仕上げようとがんばったのだ。
 話は少し前になるのだが、『阿片戦争』をやると発表した時、「わしは阿片の親分だ」と云ってかかって来た電話があった。里見機関からだという。びっくりして、電話で云われた通り、帝国ホテルへ会いに行った。都留子もびっくりして、私も一緒について行きます、もし殺されたら―などと云うので、一緒に行ったら、大変歓迎されてしまった。
 里見機関のボスは里見甫という人で、かたわらに、大連の館主をやっていた小泉友男氏の弟である小泉武雄もいるので、「何んだ」ということになり、「おどかすなよ」と笑ったものだ。
 東宝が中国で撮影する金は全部里見機関に換えてもらっているとのことだった。里見甫氏は、昔、華北満州で新聞記者をやっていたそうで、それから満州国通信社の初代主幹になり、阿片の取引きをするようになった。
 「アングロサクソンの代りにわしがやっとるんだ」
 と里見氏は云った。それから、こうも云った。
 「マキノ君、二十万円やるから、上海へ来い。これはわしの罪滅ぼしだ。たしかに現在の阿片はわしが握っている。しかし、儲けてはいないんだ。『阿片戦争』という映画を上海で撮れ」
 中国にも林則徐という阿片禁止のために戦った偉い武将がいたんだという映画を撮ってくれ、というのが里見甫氏の意見だった。
 「わかりました」と私は答えた。「二十万円は東宝へやって下さい。わしはそんな金はほしくない」
 一時は里見機関のバックアップでこの映画の上海ロケが実現しそうになったのだが、原節子の義理の兄になっていた監督の熊谷久虎が、
 「あんあとこへロケーションに行ったら、もう帰れんぞ」
 と猛烈に反対した。私は熊谷に、
 「なァ、帰れんと云うたって、飛行機で三時間で帰って来れるやないか」
 と云ったのだが、どうしても納得しないので、日本で撮ろうということになって、沼津にオープン・セットを建てた。
 ものすごく大規模のオープン・セットで、それにみあうだけの人海戦術も必要だったが、エキストラが足りない。で、エキストラは皆、中国人の役だったから、笠を二つずつ持って歩き、これを俯瞰気味に撮って(あまりキャメラを上げてしまうとバレてしまうので、キャメラマンの小原譲治が大変苦労した)、二倍の人数に見えるようにしたものだ。


(『マキノ雅弘自伝 映画渡世・地の巻』より)


映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝

映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝

映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝

映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝


・・・そういうことだったのね。
おっと、あまりにもおもしろくて、まるまる引用してしまった。マキノは映画も爆発的におもしろいが、語りも爆発的におもしろい(ロベルト・ボラーニョの小説と同じくらい、マキノのナラティブには人を惹きこむ力がある)。
ちなみに、この後には、『阿片戦争』の脚本の手直しを黒澤明に手伝ってもらったお返しに(黒澤明の名前はクレジットには入っていない)、黒澤のデビュー作『姿三四郎』に幾つかアドバイスをしたエピソードや、『阿片戦争』のフィルムを持って上海に試写に行き(『姿三四郎』はもともとマキノの元に来た話だったが、この上海行きの予定があったため、マキノはキャスティングだけして、黒澤を監督に推挙したという)、その後の宴会で一緒に踊った片言の日本語をしゃべる女性を日本のスパイと見抜き、女性の腹にピストルを突きつけた後、天井めがけてピストルを撃つというジェームズ・ボンドのようなエピソードが紹介される。マキノの映画渡世はまだまだ続く。。。



(『マキノ雅弘自伝 映画渡世・地の巻』より、『阿片戦争』のセット前での集合写真)

E.T. PHONE HOME, B GOOD

初めて映画館に行ったのは、小学生になるかならないかの頃だったか。
小さい頃の記憶はあやふやだけど、映画館で初めて見た映画が『E.T.』であることはたぶん確かだ。
その次に覚えているのは『南極物語』で、その次がちょっと時間があいて『天空の城ラピュタ』、のような気がする。自信はない。
当時住んでいた、というか、生まれ育った芦屋には、市の規制のせいか、映画館とパチンコ屋がなかった。溜まり場になるようなところを作ると、風紀が乱れるとか景観を損なうということだったのか。市内で映画が上映されるときは、ルナ・ホールという名の芦屋川沿いの市の会館が使われていた気がする(ラピュタはそこで見た、はず)。ともかく、あまり日常的に映画館で映画を見られる環境ではなかったから、幼少の折に見た映画は、小さなブラウン管の中の端っこがトリミングされたものが殆どだった。


E.T.』は随分前はテレビで放映されていたから、お茶の間でも何回か見たかもしれない。そのわりに、どんなだったかよく覚えていない。『南極物語』のことは、リキがシャチに襲われる、風連のクマが大陸に向かって駆けていって消えてしまう等々、よく覚えているのに。分厚いパンフレットを何度も読み返していたからかもしれない(数年前にBSで放送されているのを見たときも、ほとんどのシーンを覚えていた。犬の死に様が思ってた以上にヒドい、とは思ったが・・・)。


いま、『E.T.』は午前十時の映画祭の一本に選ばれ、全国各地で順ぐりに上映されている。
そして、住んでいる街にフィルムがやってきて、約30年ぶりに劇場で見ることができた。


E.T. [DVD]

E.T. [DVD]


覚えているシーンは結構あった。全然覚えていないシーンもたくさんあった。大人になって見たから、また、他にもいろんな映画をたくさん見た後だからかもしれないが、思っていたのと随分印象が違っていた。ずっと前から知っているのに、実は何にも知らなかったような。


両親が別居して、お母さんと兄、妹と暮らしているエリオット少年が、宇宙船に置き去りにされたE.T.と出会い、指の怪我を治してもらったり、自転車で一緒に空を飛んだりして仲良くなって、そして自分の星に帰るE.T.と別れる・・・という、あらすじレベルでの記憶はまちがっていなかった(そこは余程のとんちきでない限り、まちがいようがない)。
が、今見ると、それどころではなかった。エリオットとE.T.は、文字通りの一心同体、契りを交わした運命の共同体だったのだ。


そもそも、二人の仲良くなる様子がちょっとおかしい。
昔見たときはE.T.の性別なんて気にしなかったし、セックスのことなんて頭をかすめることすらなかったが(だいいち、わたしが「セックス」という言葉を知ったのはこの映画を初めて見てから1,2年後のことだ)、今回あのしわくちゃのルックスのクリーチャーを見ながら、どうも裸のようだけど、性器はあるのだろうか、もちろんあるんだろうから性器を露出しているんだろうか、おそらく両性具有ではなさそうだけどあの頭でっかち胴長短足の体型でどのようなセックスをするのだろうか・・・と不謹慎な想像をしていた。
そういう目で見ていると、E.T.がチョコにつられて初めてエリオットの部屋に来たときに、エリオットがE.T.にブランケットをかけるところや、朝になって日の光が部屋に差し込んでくる中、目覚めたエリオットがわざわざブラインドを下ろして暗くしてからE.T.と向き合うところは、どうも性的な印象をもたらすというか、ありていに言えば、知り合ったばかりの男と女が裸を見られる羞恥心もあってシーツで体を覆ったり部屋を薄暗くしたりするのと同じように見えるのだ(その後、エリオットが兄のマイケルや妹のガーティ(ドリュー・バリモア!)にE.T.を紹介したとき、E.T.は男なのか女なのかと聞かれたエリオットは間髪いれず「男の子!」と答えるのだが、このシーンにそこはかとない違和感を覚えた。いや、男の子でいいんだけど、やっぱりE.T.の性別は大事だよな、と)。


そうやって次第に仲良くなっていったエリオットとE.T.が初めてはなればなれになり、エリオットは学校に行き、E.T.はお留守番をするシークエンスがある。E.T.はエリオットの部屋を出て、キッチンに向かい、冷蔵庫を開けて食料を探し、ビールを飲み、テレビをつける。一方、エリオットは理科の授業でその日は蛙の解剖の日、少し離れた席には気になる女子が座っている。次々にビールを飲んでいよいよ酔っ払うE.T.と、かわいい女子に見られているにもかかわらず大きなゲップをしてしまい、更には欠伸をして眠気と戦っているうちに椅子から滑り落ちて撃沈するエリオットとがクロスカッティングされる。酒を飲んだE.T.と酒を飲んでないエリオットは共に酔っ払っている。どうも、ふたりは身体的にシンクロしているらしい。



そして、E.T.がテレビでジョン・フォードの『静かなる男』の、ジョン・ウェインが自分の家(イニスフリー!)に忍び込んだ男勝りのモーリン・オハラを捕まえ、引き寄せ、キスをするシーンを見ていると、まさにそのとき、ビンの蓋を開けて蛙を解放したエリオットが気になるクラスの女子に、ちょうどジョン・ウェインモーリン・オハラにしたようなキスをする、あのシーン。E.T.が捕捉した視覚情報がエリオットの脳に伝わり行動化させるテレパシーというか、おおざっぱに言えば、離れていても心がひとつになっているのだ。




(『静かなる男』より、30分あたりから)


こういう描写の積み重ねがあるからこそ、高熱を出したエリオットと瀕死のE.T.とが隣り合うベッドに寝かされ、最初は完全に同期していた脳波が次第に乖離してゆき、エリオットが回復したにもかかわらず(だからこそ?)E.T.が心肺停止に陥るシーン、そこからE.T.が蘇生してエリオットをはじめとする少年たちと共に脱走するシーン(自転車と車の素晴らしいチェイシング!ジョン・ウィリアムズのスコアがいよいよ盛り上がる、自転車が空を飛ぶシーンには、童心に戻って素直に感動する)、そして、E.T.を迎えに来た宇宙船を前にしての二人の別れのシーンは、一緒にいるべき二人が離れることの痛切さを伴って強く胸を打つ。いよいよE.T.が宇宙船に乗り、扉がゆっくりと閉まりE.T.の姿が見えなくなるカットは、今までに見た中でも最も切ないアイリス・アウトかもしれない。


という具合に、こんな映画だったんだ、と率直に驚きながら、後半はボロボロ泣いてしまった。涙は鼻涙管を通って鼻腔に流れ込んでずるずるの鼻水をあらかたウォッシュアウトし、映画が終わった後には鼻がすっきりしていた。


ところで、E.T.を探索していたNASAがエリオットの家に乗り込み、瀕死のE.T.を捕獲して救命処置を施しているとき、「10歳の頃から、E.T.を待っていた」と話す科学者が登場する。10歳のときにE.T.に出会えた少年と、大人になってから待ち望んだE.T.に辛うじて出会えた元・少年。この科学者と対照することで、エリオットの孤独と僥倖は際立つ。エリオットはE.T.に「いっしょに来て」と請われたとき、家族と共にここ=ホームに残る選択をするが、もしこの出会いがなかったら、『未知との遭遇』のリチャード・ドレイファスのように大人になってからホームを捨てていただろうか。

聴こえてる、ふりをしただけ

自分を守ってくれるひと、自分にとって大切なひとを失い、突然、世界に放り出されたとき、無防備なわたしたちはどうやって生きてゆくだろう?そして、子どものときにそういう経験をするということは、どんなことなのだろう?


精神科の看護師でもある今泉かおりが監督した『聴こえてる、ふりをしただけ』は、この問いに対して、ファンタジーに逃げることなく、誠実に答えている。



映画は、11歳の少女サチが母を亡くしたところから始まる。
父が残された母の指輪を赤い紐に通してネックレスを作り、「いつでもお母さんがそばにいられるように」と、お守りとしてサチに手渡す。父だけでなく、他の大人たちも皆、「お母さんは見守ってくれている」と異口同音にサチをなぐさめ、サチはその言葉にすがって、母の魂がどこかにあって自分を守ってくれていると信じようとする。


そこに、軽い知的障害があるらしい「みんなと少し違う」少女のんちゃんが転校してくる。小学校高学年ともなれば、お化けや幽霊の存在を信じない子も多い中で、のんちゃんはお化けがいると信じ、お化けが怖いからひとりでトイレに行くことすらできない。
母の魂に見守っていてほしいさっちゃんは、霊魂の存在を信じたいこともあり、のんちゃんとの間に「お化け同盟」とも言うべき関係が結ばれる。サチはのんちゃんがトイレに行くときについていってあげ、ドアの前で待ってあげるかわりに、自分が信じたい母の霊魂の存在への賛成票にのんちゃんの一票も加える。
彼女たちの間には、母を失ったばかりのひとりぼっちの少女と、転校してきたばかりで友だちもおらず「みんなと少し違う」少女との間に自然に生まれるであろう精神的紐帯もあるが、霊魂の存在をめぐるリアリスティックなギブ&テイクの関係もあるだろう。サチはのんちゃんがトイレにこもっているとき、あるいは教室の窓際でのんちゃんと話しているとき、首にかけた指輪のお守りを手に取り、じっと見つめる。のんちゃんがお化けを信じることで、サチの母の指輪がお守りとして効力を持ち、のんちゃんが指輪を見て「いいなあ」と羨ましがることで効力は更に増すのだろう。


更に、サチは、同級生から「12時に合わせ鏡をすると幽霊が出る」という噂を聞き、毎夜12時前に起き出しては食卓で二つの鏡を向かい合わせにして、母の霊を召還しようとする。暗い夜の部屋で少女が鏡を合わせるこのシーンは、『ミツバチのささやき』でアナがフランケンシュタインに現れてほしいと願って"Soy Ana..."と呼びかけるシーンを彷彿とさせるが、そのファンタジーが成就することはない。そうして、「お母さんは見守ってくれている」という大人たちのクリシェは次第に虚しく響くようになる。


そんな折、理科の授業で「うれしい」や「悲しい」と感じる心の動きも脳によって生み出されていると知ったのんちゃんは、懸命に考えた末、「お化けは存在しない」というコペルニクス的転回を迎え、突如としていわゆる唯物論者になる。お化けはいない、だからトイレも怖くなくないと、至極まっとうに推論し決定したのんちゃんは、ひとりでトイレに行けるようになる。そして、のんちゃんの唯物論はサチの僅かな希望を打ち砕き、ひとりでトイレに行けるようになったのんちゃんとサチとの間のギブ&テイクの関係も崩れてしまい、もはやのんちゃんが羨ましがることのない指輪もお守りとしての効力を失う(のんちゃんの指摘が真実であると直感するサチは、のんちゃんに対してトイレで報復を試みるが、自らの力でお化けの存在を否定し恐怖を乗り越えたのんちゃんには、その報復が通用しない。のんちゃんとサチとの間の決定的な断絶)。


「お母さんが見守ってくれている」という大人たちの言葉は欺瞞で、母の指輪を肌身離さず持っていることで母が傍にいてくれるのだというお守り理論も欺瞞。どんな言葉も物も母の不在を埋めることはない、母亡き今、母は単にいないのだ、という悲痛な現実に直面させられるサチ。いないものはいない、いま・ここにあるものはいま・ここにある、という「女は女である」式のトートロジーは、殊に喪失体験に適用されるときは、残酷でしかない。「指輪は指輪である(お守りではない)」「12時の合わせ鏡は12時の合わせ鏡である(母の霊は召還されない)」「いないひとはいない(・・・)」というトートロジーにより「寄る辺ないサチは寄る辺ない」ということが露になるのだ。


サチが少しずつ「母はいない」という現実を受け容れ、その中でひとりでも生きていこうとしてゆくきっかけとなるような派手な出来事はない。相米慎二における通過儀礼、すなわち『台風クラブ』における台風が訪れる夜、あるいは『お引越し』におけるひとりきりの冒険の夜のような決定的な出来事が起こるわけではない。ただ、「捨てた指輪が戻ってくる」「不仲になった友だちと仲直りする」「枯れた花がまた咲く」といった日常の中での細々とした生成変化が積み重ねられるだけである。ドラマはない、日常はある。しかし、これもまた、否、これこそが「生」であると言えるだろう。
ナボコフが「円がほどけて、螺旋形になると、悪循環から解放されるのだ。つまり、自由になるのだ」と書いているが(※ナボコフbotからの情報)、いない母はいないというトートロジーを受け容れつつもそこから脱出できるのは、日々の生成変化が円をほどいて螺旋に変えたからだろうか。


・・・さて、この映画で表現上の問題となるのは、母の不在をどう描くかという点と、もうひとつ、母を亡くしたサチがその死を受け容れ生きていく様をどう描くかという点にあるように思える。


まずもって、不在を描くことは難しい。
母の死後、台所で調味料を見つけられず目玉焼きすら焦がしてしまう父、母のかわりに料理をする近所のおばさんは、母がいた台所という物理的スペースを埋めることはできるが、母のかわりを果すことはできない。これはひとつの不在の見せ方だろう。
また、おそらく生前に母が座っていたらしい食卓の椅子とそこにかけられたエプロン。サチも誰も、その椅子とエプロンに手を触れることができない。食卓にはサチや父が座り、その周りを近所のおばさんが立ち回るが、主を失って空席のままの椅子。これも不在の見せ方だろう。
ただ、母という家庭の中心を失った家の絶対的な虚ろさを見せるやり方としては、どうも物足りないような気もした(というより、こうしたら納得、というやり方が思い当たらない)。
おそらく演出上の狙いだろう、サチの母がどんなひとだったのか、その一端というか手がかりが明かされるのは、映画のいちばん最後になってからである(フラッシュバックによる母をめぐる記憶なども一切ない)。わたしたちは、サチがその不在を哀しむ母のことを何も知らされないまま、映画の中に投げ込まれるのだ。だからだろうか、どうしてもサチが感じる母の不在と、観客であるわたしたちが感じるサチの母の不在との間には溝が生まれ、サチとの感情的な隔たりを感じてしまう。あるいは、意図をもって共感や叙情は排除されているのかもしれないが。


しかし、今泉かおり監督は、母の不在ということの切実さはともかく、母のいない世界でサチが生きる時間と空間に見る者を連れて行くことには、間違いなく成功しているだろう。
カメラは家、通学路、学校という生活の場(小学生の住む世界は狭い)をサチに付き従うように捉えていく。映画はフィルムをつまむことで人物を消すことができるし(マキノ省三がずっと前にやってる)、特殊効果を使って画面に幽霊やこの世ならざるものを登場させることもできるし、今やCGを使えば何だってできる。ただ、カメラそのものは、あるものは撮れるが、ないものは撮れない。今泉かおり監督は、映画のトリックは使わずに、カメラをサチにまっすぐに向けるだけで「あるものはある」「ないものはない」という端的な真実を暴いてゆく。その意味で母を亡くした少女を単に撮るということ自体が残酷な行為のようにも思えるが、しかし、殆ど片時もサチの傍を離れることなく、時にサチの真正面からその表情を見据えるカメラは、たしかにサチのありのままを受け止めている。サチとカメラとが向き合う様のあまりにも凜としたまっすぐさに、戸惑いすら覚えた。この映画には、確かに、ほんとうのことがある。