ムーンライズ・キングダム

前作のタイトルにちなんで、ファンタスティックMr.アンダーソンと呼びたくなるほど素晴らしい『ムーンライズ・キングダム』。
最近、劇場でやっている映画だと、イングマール・ベルイマンの『秋のソナタ』や、『ハートブルー』を撮った人だからという理由だけでとりあえず見続けているキャスリン・ビグローの『ゼロ・ダーク・サーティ』などは、「違う、そうじゃないでしょ!」とイライラしながら見ていたのでとてもストレスが溜まったのだけど、『ムーンライズ・キングダム』は見ている間じゅう「オー・イエス!」と心の中で連呼してしまう。

画面に映っているものの配置と色彩、構図、人々の佇まいとヴォイス、ひとつひとつのアイテムの意匠、子供のナレーションつきの音楽、編集のリズム。何もかもがウェスによって書かれた五線譜上の音符のように踊っている。小津やマキノなど、限られた映画人だけにしか到達しえなかった流れる音楽のような映画が、ここにはある。

高速パン、決して迷うことのないスムーズなドリーの平行移動、早いカット割り。ウェス・アンダーソンの映画はともかく早くて、そのスピードがきもちいい。
駆け落ちするサムとスージーがたどり着いた"Mile 3.25 Tidal Inlet"と呼ばれるパッとしない名前の入江で、3つ数えて海に飛び込もうとサムが言うや否や、スージーが一息にクイックカウントするワン・ツー・スリー。あのスピードで、映画も走ってゆく。

それに、ふだん早いからこそ、遅くなるときもまた一段ときもちいい。
救出作戦を敢行したカーキスカウトたちと共に海を渡ったサム&スージーがフォート・レバノンで略式結婚式を挙げた後、ボートへと向かう少年少女たちのスローモーション!
そして、そこまであからさまではないが、時間の流れがゆっくりになるシーンが二つある。それは何れもスージーの双眼鏡がサムをとらえる決定的瞬間だ。すなわち、駆け落ちを計画した2人が草原で落ち合うときと、映画の最後、スージー宅の2階の窓から出てゆくサムをスージーが見送るとき。中でも、ラストシークエンスは、その前の教会での息つく間もないシークエンスの余韻もあって、感動もひとしお。

映画の舞台となった地域一帯を歴史的な嵐が襲った夜、心優しき保安官(ブルース・ウィリス)、行方をくらました少年カーキスカウトたちの隊長(エドワード・ノートン)、Ms.Social Servicesこと福祉局の女(ティルダ・スウィントン)らが、駆け落ちしたサム&スージー、そして彼らを手引きしたスカウトたちを追って、主人公の二人がかつて出会った場所でもある教会にたどりつく。そして、二人を発見する。
おそらく「アメリカの夜」方式で撮られたのだろう教会の屋根の上のシーン、追い詰められたサムとスージーが高く高く塔を登り、逃げ場をなくしていざ飛び降りんとする前に交わす愛の言葉とキス。そして二人を救おうと追いかけてきた保安官ブルース・ウィリスを交えた3人の顔、握られた手。ワン・ツー・スリーのクイックカウントのようにあっという間にカットは切り替わるが、この見つめ合う顔と顔(そして手)のシンプルな切り返しからは、驚くほどのエモーションが溢れ出す。

そして、嵐が去り、落ち着くべきところに落ち着いた後の、ある晴れた日。
おそらくスージーの両親の監視が厳しくて、サムがスージーの家に忍び込むことで逢引する日々を過ごしているのだろうか。ちょうどお昼どきのスージー宅、階下からのスージーの両親による昼食の合図を聞いて、スージーのおませさんな弟たちは食卓に向かい、同じフロアで絵を描いていたサムは2階の窓から身を乗り出し、窓ごしにスージーにしばしの別れを告げる。出てゆくサム、見送るスージーの切り返し。地上へと降りてゆき、車に乗り込むサムを双眼鏡で愛しげに見つめるスージー。このとき、「遠くのものが近くに見える」「魔法の道具」である双眼鏡が、その魔法の力をいかんなく発揮する。ついさっきまでそばにいたサムが遠ざかってゆく。その彼をいつまでも近くで見ていたいという名残惜しさが、心なしかサムをとらえた双眼鏡ごしのショットの持続時間を引き延ばしているように思えるのだ。車に乗ろうとするサムはもはや屈託なさそうにしているが、私はあなたが家から遠ざかってゆく姿を双眼鏡の視界から消えるまで見ていたい…そんなスージーのきもちが仮託されたようなシーン、涙なくして見ることはできない。

たぶん、去るサムを双眼鏡でスージーが見送るのは、日々繰り返される二人のお約束なのだろう。そんな穏やかな日常を手にする前、文字通り「嵐」のように過ぎ去った逃避行の時間に、永久に封をするような秘密の「月の出王国」をとらえたラストカット。こうして、この映画で過ごした時間は、サムとスージーだけでなく、二人を見守ったわたしたちにとってもたいせつな宝物になる。。。