夜顔

オープニングクレジットとともに始まるドヴォルザーク交響曲はまさに佳境に入っているっぽく、演奏しているオーケストラを正面からとらえたショットにいきなり直面させられ、おお盛り上がっているなあと思っていると、観客らしい禿げ頭の老人がまじめに音楽を聴いているショットに切り替わる。手に汗を握っているっぽいけれども、ふと集中が途切れたのか、きょろきょろすると、観客席に見知った女性の顔を見つける。

それ以降、老人は音楽どころではなく、いつ演奏が終わるのか、気が気でない様子。ああ、やっと音楽が終わった、さああの人をつかまえなきゃと、席を立って退場してゆくお客さんにパルドンパルドン言いまくって、彼ら彼女らを追い越し、くだんの人物を追いかける。くだんの女性は、老人に気付き、そそくさと逃げるように会場を出る。パルドンパルドン言って急いだけれど、すんでのところで彼女は車に乗り込んで行ってしまった。途方に暮れた老人は、人もまばらになり、やがて鍵を施錠する係員しかいなくなったコンサート会場の建物の前で、右に行っては左に戻り、左に行っては右に戻った末、諦めたようにその場を去る。

家路、のはずなのだけど、夜道を目的もなさそうに(内心、さっきの女性はどこ行ったのかな、と思っているのだろう)ぶらぶら歩いている老人は、ショーウィンドーに飾られているウィッグをかぶったマネキンの前にふと立ち止まる。真ん中のマネキンは、さっき捕まえ損ねた女性と同様のボブのブロンド。その左には長めのダークヘアー。ウィッグとその主であるマネキンをまんじりと見つめる老人。ストップ&ゴー、再び老人は歩き始める。

ブニュエル『昼顔』のセヴリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)とその夫の親友ユッソン(ミシェル・ピコリ)が数十年ぶりに再会したという設定で、セヴリーヌ役をビュル・オジェが引き継ぎ、老いたピコリがそのままユッソン役を演じる『夜顔』は、ゴージャスというか贅沢というか、いかにもリッチな作りになっていて、1時間ちょっとの小品ながら、見るたびにコース料理を完食したような満腹感、満足感を味わうことができる。

そのリッチさの理由は、監督であるマノエル・ド・オリヴェイラの諸作(近作であれば、たとえば、オリヴェイラ常連の名優ルイス=ミゲル・シントラがフェルナンド・ペソアを朗読する『ブロンド少女は過激に美しく』)と同様、本当によいものを惜しげもなくカメラにおさめた結果、画面じゅうをリッチなものが埋め尽くしているから、ということもあるだろうけど、きっとそれだけではない。映画の贅沢さ、リッチさの理由が単にそれだけだったら、ほんものの貴族であるルキノ・ヴィスコンティの映画の方がもっと贅沢であってもおかしくないが、必ずしもそうではない。おそらく、この冒頭のシークエンスでも見られる、うろうろした末に立ち止まる、そして僕は途方に暮れる、という時間の無駄遣いにこそ、リッチさ、贅沢さの秘密があるんじゃないか。立ち止りすぎる老人ミシェル・ピコリを間もなく閉館する銀座テアトルシネマのスクリーンで見ながら、そんなことをふと思ったのだった。

夜顔』は、オリヴェイラによるブニュエルへのオマージュであり、『昼顔』の続編であり、『昼顔』でユッソンとセヴリーヌが共有していた秘密が果たしてユッソンによってセヴリーヌの夫へ明かされたのか、という謎について、オリヴェイラなりに答えた(答えなかった)ものではある。とはいえ、その実、画面の中で展開されているのは、ユッソンことミシェル・ピコリとセヴリーヌことビュル・オジェによる鬼ごっこでしかない。毎度毎度オジェを取り逃がす鬼のピコリが、ようやく相手をつかまえて部屋で対峙したのに、やっぱり最後には取り逃がす。逃げては追いかけるそのたびに、ピコリはうろうろしては立ち止まるのだ。

いかにも紳士らしく、オリヴェイラ監督の孫リカルド・トレパが演じるバーテンダーにバーカウンターのこっち側から若かりし頃の奇譚を話し、少し離れたテーブルで色目を使ってくる二人の娼婦に酒をおごるミシェル・ピコリのあの余裕っぷりは、鬼ごっこの最中には見る影もない。バーではバーテンダーに対しても娼婦に対しても自らがリードをとるが、鬼ごっこでは後手後手に回るばかり。追いかけっこの途中で一瞬立ち止まるピコリ。そのとき、真空の時間と空間が訪れたかのように彼の目に飛び込んでくるパリの風景、ホテル・レジーナ前、黄金の馬にまたがった黄金のジャンヌ・ダルク。しかし、完全な静止ではない。黄金の像はもちろん静止したままだが、街は沈黙することなくパリの喧騒が遠くから聞こえてきて、こうしている間にも時間が流れていることを教えてくれる。えっとなんだったっけ?とでも言いたげなミシェル・ピコリ。そんなエアポケットのような真空の瞬間が『夜顔』には溢れている。それが贅沢でありゴージャスだ。

最後のシークエンスとなるレストランでの晩餐では、一転してテーブルを挟んで対峙した二人が、数十年の時間をいっきに埋めようとして、しかしそう簡単にも埋められるわけもなく、互いに様子をうかがいながら、今か今かと決着をつけるタイミングを見計らう。その様子を固唾を飲んで見守る観客には、この短い時間が何時間にもうんと引き伸ばされたように感じられる。

個室でビュル・オジェの到着を待ちかねるミシェル・ピコリは相変わらずそわそわしているが、しばらく後に再会した二人はシャンパンで乾杯し、席についたところで食事が始まる。二人は会話を交わすことなく、時々視線のみを交わして、黙々とアンティパスト、メイン・・・と料理を食べ続ける。沈黙の中、聞こえてくるのは、ナイフとフォークが皿に当たる音と、咀嚼の音と、ピコリが「おぅ」「んー」と時折漏らす声のみ(かわいい)。この腹の探り合いのような食事の時間は、その後に続くであろう対決のための前戯のようにも見える。そして、間もなく部屋の照明が消され、ロウソクの火だけがゆらめく中、二人のシルエットが浮かび上がる暗がりで秘密をめぐる昔話が始まる。。。

さて、二人が決裂してセヴリーヌが去った後、入れ違いに廊下をドアの前まで歩いてくるニワトリ。ここにはブニュエル・リスペクトの意味も込められているだろうが、立ち止まったニワトリの<えっとなんだったっけ?>とでも言わんばかりの表情は、しばし前に同じ場所に立ち止まったビュル・オジェが部屋に入るか入るまいか躊躇したときの表情にも、パリの路上に立ち止まったときに何度か見せたミシェル・ピコリの表情にも、とてもよく似ていた。立ち止まったひとの顔は、きっとあのニワトリみたいな顔をしてるんだろう。