いちおう、2013年の映画

一、2013年に見ておもしろかった映画。古いのと新しいのないまぜで10こぐらい。

カリフォルニア・ドールズ』(ロバート・アルドリッチ)
アウトロー』(クリストファー・マッカリー)
ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン)
奪命金』(ジョニー・トー)
ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス)
『親密さ』『うたうひと』『不気味なものの肌に触れる』など(濱口竜介)
『警察官』(内田吐夢)
天国の門』(マイケル・チミノ)
『偽大学生』(増村保造)
眠れる美女』(マルコ・ベロッキオ)
『遭難者』『女っ気なし』(ギョーム・ブラック)
忍びの卍』など(鈴木則文)
ペコロスの母に会いに行く』など(森崎東)
『名探偵ゴッド・アイ』(ジョニー・トー)


二、書きかけて途中でやめてしまったものを捨ててしまうのはもったいないし、思ってたこと考えてたことは、ほったらかしておくと虚空に消えてしまうので、不完全なままではあるけど残しておこう。

・篠崎誠『あれから』。死んだひとは(比較的)安全、生きているひとは危ない。記憶と現在の不意打ち。

舩橋淳桜並木の満開の下に』。成瀬『乱れ雲』との差異にこめられた批評性。

濱口竜介『親密さ』。投げキッスの距離。

・『名探偵ゴッド・アイ』に含まれた笑い飯の成分。ジョニー・トーとワイ・カーファイのどちらかはたぶん笑い飯を見ている。どっちかが笑い飯の漫才をYou Tubeで見て、「殺人現場で犯人役と殺される役をかわりばんこで交代しながらものすごいスピードで推理するっていうのを西田と哲夫みたいにやりたいねん」って相方に言ったと思う。

・『でっかく生きる』。ジーン・ケリー体操のおにいさん

・『牡蠣の女王』。ふざけ症ルビッチのフォックストロット・エピデミック。体も表情もゆるんだひとびとのふまじめきわまりない爆発的な感染性ダンス(ちなみにサイレント)。一音ごとに子どもたちの本気が込められた鈴木卓爾『楽隊のうさぎ』の手に汗握る本番シーンとセットで。

宮崎駿風立ちぬ』。ずっと何かおかしいと思いながら見てた。最後、二郎が菜穂子に別れを告げていま一度生に向かうあの原風景的な場所は、アンゲロプロス永遠と一日』で死の直前のブルーノ・ガンツが死者たちと逢う記憶の中の浜辺と重なる。しかし、後者はとてもすんなり入ってくるのに、『風立ちぬ』のはどうも腑に落ちない。断念の痛切さを感じてもいいはずなのに、そうはならない(そもそも駿はつべこべ言いすぎる。たぶんそれがよくない)。もやもや。
一方、森崎東ペコロスの母に会いに行く』。忘れるのと思い出すのが同時に起こって現在の中にさまざまな時制が入り混じっている認知症の母が、祭りの夜にやはり死者たちと再会し、記念撮影する橋の上。すごくしっくりくる。開かれている(他者に、過去に、自らに)。「いざ生きめやも」とか敢えて言わずに現在を生きてる森崎東。こっちの方がうんとかっこいい。

高畑勲かぐや姫の物語』、翁目線で見ると溝口の『雨月物語』のようでもあるし、姫目線で見ると相米慎二のようでもある。いずれにしても痛ましいのに、痛ましさを中和、というか、なかったことにするかのごとき最後のお迎えシーンのサイケデリックさがぶっとんでいて、狐につままれるか狸に化かされた(ぽんぽこ)ようなきもちになる。こういうのを実写で、更に気をたがえるところまで突き進めると、たぶん内田吐夢(たとえば『恋や恋なすな恋』)みたいになる。

夜顔

オープニングクレジットとともに始まるドヴォルザーク交響曲はまさに佳境に入っているっぽく、演奏しているオーケストラを正面からとらえたショットにいきなり直面させられ、おお盛り上がっているなあと思っていると、観客らしい禿げ頭の老人がまじめに音楽を聴いているショットに切り替わる。手に汗を握っているっぽいけれども、ふと集中が途切れたのか、きょろきょろすると、観客席に見知った女性の顔を見つける。

それ以降、老人は音楽どころではなく、いつ演奏が終わるのか、気が気でない様子。ああ、やっと音楽が終わった、さああの人をつかまえなきゃと、席を立って退場してゆくお客さんにパルドンパルドン言いまくって、彼ら彼女らを追い越し、くだんの人物を追いかける。くだんの女性は、老人に気付き、そそくさと逃げるように会場を出る。パルドンパルドン言って急いだけれど、すんでのところで彼女は車に乗り込んで行ってしまった。途方に暮れた老人は、人もまばらになり、やがて鍵を施錠する係員しかいなくなったコンサート会場の建物の前で、右に行っては左に戻り、左に行っては右に戻った末、諦めたようにその場を去る。

家路、のはずなのだけど、夜道を目的もなさそうに(内心、さっきの女性はどこ行ったのかな、と思っているのだろう)ぶらぶら歩いている老人は、ショーウィンドーに飾られているウィッグをかぶったマネキンの前にふと立ち止まる。真ん中のマネキンは、さっき捕まえ損ねた女性と同様のボブのブロンド。その左には長めのダークヘアー。ウィッグとその主であるマネキンをまんじりと見つめる老人。ストップ&ゴー、再び老人は歩き始める。

ブニュエル『昼顔』のセヴリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)とその夫の親友ユッソン(ミシェル・ピコリ)が数十年ぶりに再会したという設定で、セヴリーヌ役をビュル・オジェが引き継ぎ、老いたピコリがそのままユッソン役を演じる『夜顔』は、ゴージャスというか贅沢というか、いかにもリッチな作りになっていて、1時間ちょっとの小品ながら、見るたびにコース料理を完食したような満腹感、満足感を味わうことができる。

そのリッチさの理由は、監督であるマノエル・ド・オリヴェイラの諸作(近作であれば、たとえば、オリヴェイラ常連の名優ルイス=ミゲル・シントラがフェルナンド・ペソアを朗読する『ブロンド少女は過激に美しく』)と同様、本当によいものを惜しげもなくカメラにおさめた結果、画面じゅうをリッチなものが埋め尽くしているから、ということもあるだろうけど、きっとそれだけではない。映画の贅沢さ、リッチさの理由が単にそれだけだったら、ほんものの貴族であるルキノ・ヴィスコンティの映画の方がもっと贅沢であってもおかしくないが、必ずしもそうではない。おそらく、この冒頭のシークエンスでも見られる、うろうろした末に立ち止まる、そして僕は途方に暮れる、という時間の無駄遣いにこそ、リッチさ、贅沢さの秘密があるんじゃないか。立ち止りすぎる老人ミシェル・ピコリを間もなく閉館する銀座テアトルシネマのスクリーンで見ながら、そんなことをふと思ったのだった。

夜顔』は、オリヴェイラによるブニュエルへのオマージュであり、『昼顔』の続編であり、『昼顔』でユッソンとセヴリーヌが共有していた秘密が果たしてユッソンによってセヴリーヌの夫へ明かされたのか、という謎について、オリヴェイラなりに答えた(答えなかった)ものではある。とはいえ、その実、画面の中で展開されているのは、ユッソンことミシェル・ピコリとセヴリーヌことビュル・オジェによる鬼ごっこでしかない。毎度毎度オジェを取り逃がす鬼のピコリが、ようやく相手をつかまえて部屋で対峙したのに、やっぱり最後には取り逃がす。逃げては追いかけるそのたびに、ピコリはうろうろしては立ち止まるのだ。

いかにも紳士らしく、オリヴェイラ監督の孫リカルド・トレパが演じるバーテンダーにバーカウンターのこっち側から若かりし頃の奇譚を話し、少し離れたテーブルで色目を使ってくる二人の娼婦に酒をおごるミシェル・ピコリのあの余裕っぷりは、鬼ごっこの最中には見る影もない。バーではバーテンダーに対しても娼婦に対しても自らがリードをとるが、鬼ごっこでは後手後手に回るばかり。追いかけっこの途中で一瞬立ち止まるピコリ。そのとき、真空の時間と空間が訪れたかのように彼の目に飛び込んでくるパリの風景、ホテル・レジーナ前、黄金の馬にまたがった黄金のジャンヌ・ダルク。しかし、完全な静止ではない。黄金の像はもちろん静止したままだが、街は沈黙することなくパリの喧騒が遠くから聞こえてきて、こうしている間にも時間が流れていることを教えてくれる。えっとなんだったっけ?とでも言いたげなミシェル・ピコリ。そんなエアポケットのような真空の瞬間が『夜顔』には溢れている。それが贅沢でありゴージャスだ。

最後のシークエンスとなるレストランでの晩餐では、一転してテーブルを挟んで対峙した二人が、数十年の時間をいっきに埋めようとして、しかしそう簡単にも埋められるわけもなく、互いに様子をうかがいながら、今か今かと決着をつけるタイミングを見計らう。その様子を固唾を飲んで見守る観客には、この短い時間が何時間にもうんと引き伸ばされたように感じられる。

個室でビュル・オジェの到着を待ちかねるミシェル・ピコリは相変わらずそわそわしているが、しばらく後に再会した二人はシャンパンで乾杯し、席についたところで食事が始まる。二人は会話を交わすことなく、時々視線のみを交わして、黙々とアンティパスト、メイン・・・と料理を食べ続ける。沈黙の中、聞こえてくるのは、ナイフとフォークが皿に当たる音と、咀嚼の音と、ピコリが「おぅ」「んー」と時折漏らす声のみ(かわいい)。この腹の探り合いのような食事の時間は、その後に続くであろう対決のための前戯のようにも見える。そして、間もなく部屋の照明が消され、ロウソクの火だけがゆらめく中、二人のシルエットが浮かび上がる暗がりで秘密をめぐる昔話が始まる。。。

さて、二人が決裂してセヴリーヌが去った後、入れ違いに廊下をドアの前まで歩いてくるニワトリ。ここにはブニュエル・リスペクトの意味も込められているだろうが、立ち止まったニワトリの<えっとなんだったっけ?>とでも言わんばかりの表情は、しばし前に同じ場所に立ち止まったビュル・オジェが部屋に入るか入るまいか躊躇したときの表情にも、パリの路上に立ち止まったときに何度か見せたミシェル・ピコリの表情にも、とてもよく似ていた。立ち止まったひとの顔は、きっとあのニワトリみたいな顔をしてるんだろう。

ムーンライズ・キングダム

前作のタイトルにちなんで、ファンタスティックMr.アンダーソンと呼びたくなるほど素晴らしい『ムーンライズ・キングダム』。
最近、劇場でやっている映画だと、イングマール・ベルイマンの『秋のソナタ』や、『ハートブルー』を撮った人だからという理由だけでとりあえず見続けているキャスリン・ビグローの『ゼロ・ダーク・サーティ』などは、「違う、そうじゃないでしょ!」とイライラしながら見ていたのでとてもストレスが溜まったのだけど、『ムーンライズ・キングダム』は見ている間じゅう「オー・イエス!」と心の中で連呼してしまう。

画面に映っているものの配置と色彩、構図、人々の佇まいとヴォイス、ひとつひとつのアイテムの意匠、子供のナレーションつきの音楽、編集のリズム。何もかもがウェスによって書かれた五線譜上の音符のように踊っている。小津やマキノなど、限られた映画人だけにしか到達しえなかった流れる音楽のような映画が、ここにはある。

高速パン、決して迷うことのないスムーズなドリーの平行移動、早いカット割り。ウェス・アンダーソンの映画はともかく早くて、そのスピードがきもちいい。
駆け落ちするサムとスージーがたどり着いた"Mile 3.25 Tidal Inlet"と呼ばれるパッとしない名前の入江で、3つ数えて海に飛び込もうとサムが言うや否や、スージーが一息にクイックカウントするワン・ツー・スリー。あのスピードで、映画も走ってゆく。

それに、ふだん早いからこそ、遅くなるときもまた一段ときもちいい。
救出作戦を敢行したカーキスカウトたちと共に海を渡ったサム&スージーがフォート・レバノンで略式結婚式を挙げた後、ボートへと向かう少年少女たちのスローモーション!
そして、そこまであからさまではないが、時間の流れがゆっくりになるシーンが二つある。それは何れもスージーの双眼鏡がサムをとらえる決定的瞬間だ。すなわち、駆け落ちを計画した2人が草原で落ち合うときと、映画の最後、スージー宅の2階の窓から出てゆくサムをスージーが見送るとき。中でも、ラストシークエンスは、その前の教会での息つく間もないシークエンスの余韻もあって、感動もひとしお。

映画の舞台となった地域一帯を歴史的な嵐が襲った夜、心優しき保安官(ブルース・ウィリス)、行方をくらました少年カーキスカウトたちの隊長(エドワード・ノートン)、Ms.Social Servicesこと福祉局の女(ティルダ・スウィントン)らが、駆け落ちしたサム&スージー、そして彼らを手引きしたスカウトたちを追って、主人公の二人がかつて出会った場所でもある教会にたどりつく。そして、二人を発見する。
おそらく「アメリカの夜」方式で撮られたのだろう教会の屋根の上のシーン、追い詰められたサムとスージーが高く高く塔を登り、逃げ場をなくしていざ飛び降りんとする前に交わす愛の言葉とキス。そして二人を救おうと追いかけてきた保安官ブルース・ウィリスを交えた3人の顔、握られた手。ワン・ツー・スリーのクイックカウントのようにあっという間にカットは切り替わるが、この見つめ合う顔と顔(そして手)のシンプルな切り返しからは、驚くほどのエモーションが溢れ出す。

そして、嵐が去り、落ち着くべきところに落ち着いた後の、ある晴れた日。
おそらくスージーの両親の監視が厳しくて、サムがスージーの家に忍び込むことで逢引する日々を過ごしているのだろうか。ちょうどお昼どきのスージー宅、階下からのスージーの両親による昼食の合図を聞いて、スージーのおませさんな弟たちは食卓に向かい、同じフロアで絵を描いていたサムは2階の窓から身を乗り出し、窓ごしにスージーにしばしの別れを告げる。出てゆくサム、見送るスージーの切り返し。地上へと降りてゆき、車に乗り込むサムを双眼鏡で愛しげに見つめるスージー。このとき、「遠くのものが近くに見える」「魔法の道具」である双眼鏡が、その魔法の力をいかんなく発揮する。ついさっきまでそばにいたサムが遠ざかってゆく。その彼をいつまでも近くで見ていたいという名残惜しさが、心なしかサムをとらえた双眼鏡ごしのショットの持続時間を引き延ばしているように思えるのだ。車に乗ろうとするサムはもはや屈託なさそうにしているが、私はあなたが家から遠ざかってゆく姿を双眼鏡の視界から消えるまで見ていたい…そんなスージーのきもちが仮託されたようなシーン、涙なくして見ることはできない。

たぶん、去るサムを双眼鏡でスージーが見送るのは、日々繰り返される二人のお約束なのだろう。そんな穏やかな日常を手にする前、文字通り「嵐」のように過ぎ去った逃避行の時間に、永久に封をするような秘密の「月の出王国」をとらえたラストカット。こうして、この映画で過ごした時間は、サムとスージーだけでなく、二人を見守ったわたしたちにとってもたいせつな宝物になる。。。

カリフォルニア・ドールズ

窮地に追い込まれても立ち上がる人々、屈辱にまみれても誇りを失わない人々は逞しく、美しい。
そういった人々の姿をロバート・アルドリッチは何度となく描いてきたが、そのフィルモグラフィの中でも『カリフォルニア・ドールズ』の女性たちはひときわ輝いて見える。

アルドリッチの映画では、人間の逞しさも弱さも、美しさも醜さも、顔に、とりわけクローズアップに、しっかり刻まれている。

ロンゲスト・ヤード』でプレーする囚人たちの喜びと誇りに満ちた笑顔。
北国の帝王』で雌雄を決する車掌とホーボーの命懸けの顔。
飛べ!フェニックス』で遭難した砂漠の地でフェニックス号の回転するプロペラを希望と祈りを込めて見上げる砂まみれ髭だらけの顔。
合衆国最後の日』の登場シーンでは髭剃り中のクリームを塗りたくった何とも頼りなさそうな合衆国大統領ですら、脱獄兵の立てこもる基地に自ら乗り込んで直接交渉すると決意したときの死をも覚悟した脂ぎった顔がクローズアップされるとき、苦境に立たされた人間から湧き出す途方もない力強さが画面からあふれ出している。

顔、顔、顔。
アルドリッチが何度も起用したリー・マーヴィンアーネスト・ボーグナインバート・ランカスターらの顔面力のすさまじさったら、ない。

しかし、『カリフォルニア・ドールズ』の女性レスラーたちは、顔だけでなく鍛えられた体全体から、逞しさ、美しさを放っている。

ピーター・フォーク演じるマネージャーのハリーと共にドサ回りをする、ドールズことアイリスとモリー
地方を巡業するハリーとドールズを乗せたボロボロの黄色いキャデラックはもうもうと煙を吐きながら、北米大陸を東から西に向かう。3人は残りのドル紙幣を数えながら、巡業先のケチなモーテルに泊まり、場末のハンバーガーショップでジャンクフードを頬張る。
街から街へ渡り歩く道化師パリアッチのオペラをBGMに走るキャデラックをとらえたロングショットに、ハリーの格言や生い立ちなど(ハリーの父親は移民で当初は英語をしゃべることすらままならなかった)、3人の友情とも愛情ともつかない親しみに満ちた会話が被せられ、車の窓からは工場の煙、製錬所の赤く燃える炎が見える。3人の会話を聞き、車窓の工業地帯の風景を見ていると、彼女らが誰と連帯しているのかよくわかる。

そんなドールズも、ひとたびコスチュームに身を包みリングに立つと、宙を飛び、マットに打ちつけられ、傷だらけになりながらも何度も立ち上がる。観客らのドールズ・コール("We Want the DOLLS!")を、あるいは敵地ではブーイングを浴び、身体を躍動させる彼女たちは、ふだんのギリギリの生活との対照もあって、誇りを持って戦う者だけが身にまとうことのできる輝きを湛えている。
そして、リングでの戦いが終われば、相手チームとも互いに労い、称えあう。興行師にギャラをピンはねされ、過酷な環境で戦い続けるのはドールズだけでない、一握りのスターを除く殆どの女性レスラーが同じ境遇に置かれているのだ。

やがて次第に力をつけたドールズは、大舞台で最強の敵「トレドの虎」にリベンジするチャンスを手に入れる。
ハリーが度々口にする「正式はとかく物入り」との格言にしたがって節約を重ねてきた3人だが、クリスマスの決戦の舞台リノでは、ハリーがギャンブルでこさえた金で一流ホテルに宿泊し、会場では観客の子どもたちに1人40ドルをつかませてドールズの応援歌を歌わせ(本当に力を持っているのは一握りの権力者(興行師やレフェリー)ではなく名も無い人々であることを、ハリーはよく知っている)、まばゆい銀色の衣装に身を包んだドールズはチャンピオンをも唖然とさせるゴージャスなショーアップでリングに登場し、そこから映画史上でも類を見ないほどの祝祭的な時間が訪れる・・・。


(今までわりとたくさん映画を見てきたけど、このドールズの登場シーンほどスクリーンが眩しいと思ったことはなかった)

ギャラのために望まずして裸になり泥レス試合を余儀なくされ観客に笑われた後、モーテルに戻って流した屈辱の涙。
初戦では勝ったものの、二戦目では奮闘虚しく「トレドの虎」に完敗したときの、リング上で溢れてきた悔し涙。
しかし、ドールズが流した幾つもの涙がとうとう勝者の涙にかわるとき、"California, Here I Come"の大合唱の中、リング上で勝利の凱歌をあげるドールズとハリーの3人は、それが束の間の勝利であるからこそ、最高に輝いている。

人間や世界の美しさ、過酷さを描いた映画は少ないながら幾つかある。
しかし、それだけでなく人生の教科書たりえる映画はいっそう少ない。
じぶんにとって、『カリフォルニア・ドールズ』はその数少ない人生の教科書のひとつだ。

2012年の映画

2012年に映画館で見た映画の中から、特に好きになったもの、おもしろかったものを選びました。
見た順で発表します。

<新しいの>
『テトロ』(フランシス・フォード・コッポラ
『J・エドガー』(クリント・イーストウッド
『果てなき路』(モンテ・ヘルマン
ル・アーヴルの靴みがき』(アキ・カウリスマキ
ダーク・シャドウ』(ティム・バートン
Virginia/ヴァージニア』(フランシス・フォード・コッポラ
ライク・サムワン・イン・ラブ』(アッバス・キアロスタミ
『Playback』(三宅唱
アウトレイジ ビヨンド』(北野武
『次の朝は他人』(ホン・サンス

<古いの>
『大砂塵』(ニコラス・レイ
『騎手物語』(ボリス・バルネット
北国の帝王』(ロバート・アルドリッチ
荒野の女たち』(ジョン・フォード
『影の列車』(ホセ・ルイス・ゲリン
ウィンチェスター銃’73』(アンソニー・マン
『白夜』(ロベール・ブレッソン

今住んでいるところでは、まだ『カリフォルニア・ドールズ』が上映されていないので、上記リストに入っていません。2013年早々のお楽しみです。

ほんとうは、日本の古い映画が大好きで、「ポーランド映画祭」と「映画は大映」特集が同時にやっていたら迷わず後者を選びますし、マキノや成瀬がどこかでかかっていたら反射的に見に行くのがハビトゥスエートス?的になっているほどなのですが、去年見た邦画旧作は何度も見て好きだからまた見たものが少しあった程度でした。
加藤泰とか鈴木則文とか、増村とか三隅とか、川島雄三とか中平康とか、内田とか吐夢とか、マキノとか雅弘とか、神代とか辰巳とか、そういうのをもっと見たいんや!もっと!見たいんや!!

・・・とはいえ、今年はとても忙しくなりそうなので、タランティーノ、PTA、ゼメキスの新作すら劇場で見られるかどうか。。。

恋に至る病

男女がぶつかった拍子に体と心が入れ替わり、おれがあいつであいつがおれになってしまう、という映画は昔あったが、男と女が性器だけを交換するという話は未だ嘗てあっただろうか。
入れ替わる、ということは、それだけでも当惑気味の幸せをもたらすが、人には見せられない恥ずかしいもの=性器を大好きな片想いの相手からもぎ取り、かわりに自分の性器を相手に預けるという「性器交換」の設定のあまりの幸福さには目が眩むほどだ。

木村承子監督による長編デビュー作『恋に至る病』の主人公ツブラ(我妻三輪子)は永遠に腐らない身体を手に入れるために、防腐剤入りのサプリメントしか口にしない。ツブラは生物教師マドカ(斉藤陽一郎)をまさに生物を愛でつつ観察するように見つめ続け、彼が授業中に見せる様々なしぐさをノートにスケッチしている。強迫的なツブラのノートには、彼女自身とマドカが裸で抱き合い、接合した性器が次第にどちらのものともつかなくなり、やがて互いの性器が入れ替わるという絵図が描かれており、彼女はその妄想を半ば強引に実現する。

性器が入れ替わったことに気づいたマドカは混乱し、この秘密が露見しないようにとまるで拉致するかのようにツブラを車に乗せ、使われなくなった無人の実家に向かい、そこで他の誰も知らない二人だけの生活が始まる。
赤いワンピースをまとい、自らの股間についた男性器をつんつんしてはしゃぐ天衣無縫なツブラは「私を受け容れて(あるいは、私の性器=いちばん恥ずかしいものを受け容れて)」とばかりにマドカに迫るが、誰ともいたくないマドカはツブラが近づくたびに嘔気を催し、彼女を拒む。

こじれる二人の関係は、ツブラの親友エン(佐津川愛美)と彼女に思いを寄せるマル(染谷将太)を巻き込み、二人の秘密の生活は、やがてその秘密を知ってしまったその他二人を含めた四人の生活へと変わってゆく。
学校という有象無象の生徒たちがわんさかいる空間とは違い、プライベートな空間であるマドカの実家は、そこに住まう人間がひとり増えるだけで、ひとびとの距離感を変容させてしまう。ちなみに、エンとマルはベランダ伝いで互いの部屋に行き来できるお隣同士(『孤独な惑星』の綾野剛と竹厚綾のように)だが、二人の関係もマドカの実家に来ることで変わってゆく。
ところで、使われていなかった無人の家のカーテンを開けると光が差し込み、そこでごはん(というか、おにぎり!)を作り食べ、それぞれの部屋で眠る・・・という、ヴァカンス感と「おうち」感が絶妙にブレンドされた生活空間とそこに流れる時間も、いい。

さて、恥ずかしさを共有できなかったツブラとマドカは、やがて互いを受け容れあうことができたところで、学校という日常に戻る(嘔気によってツブラに対する拒否感を示していたマドカが彼女を受け容れるに至る過程にはイマイチ腑に落ちないところもあるが、それというのもこの映画自体、ツブラがマドカに対する想いを如何に成就させるか、という目線で主に語られているからかもしれない。エンとマルの関係や、マドカの昆虫標本のエピソードを折り込み、二組の男女(と一組の女性同士)の関係性を描いているように巧妙に見せているものの、映画の大半を占めているのはやはりツブラの世界なのではないだろうか。その他の3人はツブラに巻き込まれ遭難しているようにも見える)。

学校に戻ったところでもうマドカの方を振り返ることのないツブラの後ろ姿の凛々しさに胸が痛むのは、恋愛のあるステージの終わりと短いヴァカンスの終わりとが制服を着た彼女の後ろ姿に重ねられ、幸福な季節の終わりを告げているからだろうか。あるいは、マドカを見つめるツブラから始まった映画が、ツブラを見つめるマドカで終わっているからだろうか。。。

Virginia/ヴァージニア

第一印象だけでモテるひとがいるように、映画にもモテるルックスというのはあるんじゃないかと思うことがある。もちろん、好きな異性(同性でもよいのだけど)のタイプがあるように、好きな映画のタイプというのはおそらくあって、他のひとにとってはそうでもないのに、じぶんにとってはピンポイントで超タイプ☆ということがある。それは映画の出来不出来とは必ずしも相関せず、あばたもえくぼ、どういうわけか好きになってしまったら、その映画のすべてが好きになってしまうような惚れ方である。

今年見た新しめの映画でじぶんにとって超タイプ☆なのは、三宅唱の『Playback』、ホン・サンスの「恋愛をめぐる4つの考察」の諸作(特に『次の朝は他人』)、そしてフランシス・フォード・コッポラの『Virginia/ヴァージニア』だった。

とりわけ、『Virginia/ヴァージニア』はここ数年でも断トツのお気に入り、それにしてもなんてラブリーなルックスをしてるのだろう。
アメリカ郊外の田舎町を車がぐるり走りながらトム・ウェイツのナレーションが"はとバス"よろしく、しかしおどろおどろしいゴシック・ホラー調で町案内する冒頭から、自作を手ずから売りにやってきたオカルト作家(ヴァル・キルマー)が登場早々に金物屋で開くサイン会、誰もが本もサインも所望しない中、気安く話しかけてきた自称名探偵にして作家志望の老保安官(ブルース・ダーン)が「いいネタがあるのだけど」と共著を持ちかけてくるくだりなど、ほんの数シーンを見ただけで、この映画にぞっこんラブになってしまう。

そして、昼間の町の70年代アメリカ的に乾いた感じの画面とは対照的に、「アメリカの夜」方式で撮影されたらしい夢のような文字通り夢のパートでは、やや青みがかったモノトーンの画面上で、森を彷徨い歩く少女の目元とくちびるにはピンク色が、ホテルに敷かれたビロードのカーペットには深い紅色が、エドガー・アラン・ポーが手にしたカンテラには柔らかい橙色が、ジョルジュ・メリエスのように彩色されており、こんなところまでラブリーだ。

他にも、電話のシーンでの分割画面など、下手をすれば「どうせCanCamとかJJでも読んでマネしたんでしょ」という印象を与えかねないようなモテ要素が、実に嫌味なくキッチュにエレガントに盛り込まれており、映画のすみずみまでがCawaii!
だいいち、エル・ファニングはもとより、アイスマンの面影はどこへ行ったのかまんまるになったヴァル・キルマー、やせた長身の老保安官に中年のデブ助手、そして助手と仲良しのちびっこメガネ少年というシェリフ3人衆まで、登場人物のひとりひとりがクリーチャーとしてCawaii!のだから、そんな映画がモテないはずがない。

更に、映画でも人間でもそうだけど、ただCawaii!だけでなく、どこかアンニュイだったり陰があったりする方がよりモテるということは往々にしてある。実は、この映画にもその手の陰がある。ホン・サンスの『次の朝は他人』で、女性を口説くテクニックとして、「あなたはふだんは・・・に見えるけど、実は・・・」ということを女性に言ってあげれば、「えー、どうしてわたしのことわかったの!?」ってことになってどうのこうの、というシーンがあったけど、それといっしょ。

さて、その陰とやらについて書くのに、どっから始めようか。こっから始めよう。

オカルト作家が訪れた町には、針が指す時刻がずれている7面の時計を持つ時計台(ラブリー!)があり、この時計台と関係あるのだろうが(別に関係なくてもいいのだけど)、この90分足らずの映画の中では幾つかの時間の位相が混在する。胸に杭が刺さったままの身元不明の少女の遺体が発見される、町の現在。ポーが滞在したこともあるホテルで、12人もの子どもたちが殺されて埋められ、1人は逃げて地獄に落ちたという凄惨な出来事のあった、町の過去。そして、作家の過去(これが陰っぽい)。
オカルト作家は、最近の殺人事件を老保安官と共に調べながら(降霊盤!)、過去の殺人事件についても独自に調べる。夜はアル中と言っていいほど飲んだくれる作家は、モーテルのベッドで独り眠りにつき、夢の中で"V"と名乗る少女(エル・ファニング)、そしてポー(ベン・チャップリン)と出会い、灯りを手にしたポーに導かれるまま、過去の事件の真相と自らの記憶の深奥に迫ってゆく。

かくの如くコッポラは、『コッポラの胡蝶の夢』でティム・ロスを直撃した稲妻のような突発的なアクシデントもその後の超常現象もなく、殺人事件という映画の中ではごくありふれた出来事と、片田舎の風変わりな時計台に曰くつきのホテルという舞台装置を用意し、そこに夢と記憶(そして…死)という生理現象をカクテルするだけで、自由自在に時間の織物をこしらえてしまう。

作家はあっち行ったりこっち行ったり、小説のネタを探し求めて、ケースごと持ってきた酒をあおり、保安官に買ってこさせた眠剤を流し込み、時に頭部に打撃を加えられ、いってきますとばかりにモノトーンの夢にトリップする。
しかし、探し物は何ですか?見つけ難い物ですか?と、こっちから夢の中へダイブするのとは対照的に、記憶の方は向こうから足音もなくやってくる。このゴシックでキッチュでホラーなトーンの映画の深層にはメランコリーが潜在しているようだが(陰!)、不意に作家のもとに(見ている我々のもとにも)そのメランコリーが訪れる理由は、次第に明かされてゆく作家の痛ましい過去、記憶にあるらしい。

記憶とメランコリーは、例えばこんな風に訪れる。

自身の著作を抱えて車で各地を巡りながら売り歩いているオカルト作家は、モーテルに車を停める。トランクを開けると、そこには平積みされた新作の本、1ダースほどの酒瓶が入っているボックスのほかに、どうやら売り物ではないらしい1冊の本もある。その本を開くと、そこには少女の写真が挟んであり、そして「この処女作を愛娘に捧げる」というようなことが書かれている。少女は作家の娘なのだ。

借金返済で首が回らないらしい作家は、妻にホイットマンの私家版の愛蔵本を見つけられ売り飛ばされそうになるが、売られるのが嫌ならお金を工面してと頼まれ、新作を書くという条件で前借りを編集者に頼む。インターネット回線でのテレビ電話で話す二人が映る分割画面の片方にいる編集者は、前借りしたいならば新作の粗筋と結末を送るようにと言い渡し、更に「霧の湖」だけではダメだと念押しする。

作家は、車に積んで持ってきたらしい折りたたみ式の机をモーテルの部屋の中で展開し、マックブックを起動し、酒を用意しグラスに氷を入れ、準備万端で『吸血鬼の処刑台』と題された新作の執筆を開始する。おそらくいつものことなのだろう、酒を何杯もあおり、最初の文章を書き始めるが、"There was no fog on the lake"云々と「霧の湖」からつかず離れず、次第に離れられなくなりながら何度も書き直しているうちに、mist, misty mist・・・Vicky・・・と、いつの間にか霧が靄に、そして娘の名ヴィッキーに変わってゆく。どうやら作家は娘を失ったらしく、そのときの記憶が痛みを伴って甦り、作家を苛んでいるらしい・・・。

作家と娘に何があったのか、その謎はもちろん、殺人事件の謎と共に明らかにされてゆく。しかし、ラブリーの陰にあるメランコリーの正体がわかっておしまい、というわけではなく、舌をぺろりと出すようなラブリーなエンディングが待っているのが、この映画のモテるところ。エンドロールに"TWIXT"という紅の文字がどーんと出てきたときに、もう一度『Virginia/ヴァージニア』に惚れ直すことだろう。