Virginia/ヴァージニア

第一印象だけでモテるひとがいるように、映画にもモテるルックスというのはあるんじゃないかと思うことがある。もちろん、好きな異性(同性でもよいのだけど)のタイプがあるように、好きな映画のタイプというのはおそらくあって、他のひとにとってはそうでもないのに、じぶんにとってはピンポイントで超タイプ☆ということがある。それは映画の出来不出来とは必ずしも相関せず、あばたもえくぼ、どういうわけか好きになってしまったら、その映画のすべてが好きになってしまうような惚れ方である。

今年見た新しめの映画でじぶんにとって超タイプ☆なのは、三宅唱の『Playback』、ホン・サンスの「恋愛をめぐる4つの考察」の諸作(特に『次の朝は他人』)、そしてフランシス・フォード・コッポラの『Virginia/ヴァージニア』だった。

とりわけ、『Virginia/ヴァージニア』はここ数年でも断トツのお気に入り、それにしてもなんてラブリーなルックスをしてるのだろう。
アメリカ郊外の田舎町を車がぐるり走りながらトム・ウェイツのナレーションが"はとバス"よろしく、しかしおどろおどろしいゴシック・ホラー調で町案内する冒頭から、自作を手ずから売りにやってきたオカルト作家(ヴァル・キルマー)が登場早々に金物屋で開くサイン会、誰もが本もサインも所望しない中、気安く話しかけてきた自称名探偵にして作家志望の老保安官(ブルース・ダーン)が「いいネタがあるのだけど」と共著を持ちかけてくるくだりなど、ほんの数シーンを見ただけで、この映画にぞっこんラブになってしまう。

そして、昼間の町の70年代アメリカ的に乾いた感じの画面とは対照的に、「アメリカの夜」方式で撮影されたらしい夢のような文字通り夢のパートでは、やや青みがかったモノトーンの画面上で、森を彷徨い歩く少女の目元とくちびるにはピンク色が、ホテルに敷かれたビロードのカーペットには深い紅色が、エドガー・アラン・ポーが手にしたカンテラには柔らかい橙色が、ジョルジュ・メリエスのように彩色されており、こんなところまでラブリーだ。

他にも、電話のシーンでの分割画面など、下手をすれば「どうせCanCamとかJJでも読んでマネしたんでしょ」という印象を与えかねないようなモテ要素が、実に嫌味なくキッチュにエレガントに盛り込まれており、映画のすみずみまでがCawaii!
だいいち、エル・ファニングはもとより、アイスマンの面影はどこへ行ったのかまんまるになったヴァル・キルマー、やせた長身の老保安官に中年のデブ助手、そして助手と仲良しのちびっこメガネ少年というシェリフ3人衆まで、登場人物のひとりひとりがクリーチャーとしてCawaii!のだから、そんな映画がモテないはずがない。

更に、映画でも人間でもそうだけど、ただCawaii!だけでなく、どこかアンニュイだったり陰があったりする方がよりモテるということは往々にしてある。実は、この映画にもその手の陰がある。ホン・サンスの『次の朝は他人』で、女性を口説くテクニックとして、「あなたはふだんは・・・に見えるけど、実は・・・」ということを女性に言ってあげれば、「えー、どうしてわたしのことわかったの!?」ってことになってどうのこうの、というシーンがあったけど、それといっしょ。

さて、その陰とやらについて書くのに、どっから始めようか。こっから始めよう。

オカルト作家が訪れた町には、針が指す時刻がずれている7面の時計を持つ時計台(ラブリー!)があり、この時計台と関係あるのだろうが(別に関係なくてもいいのだけど)、この90分足らずの映画の中では幾つかの時間の位相が混在する。胸に杭が刺さったままの身元不明の少女の遺体が発見される、町の現在。ポーが滞在したこともあるホテルで、12人もの子どもたちが殺されて埋められ、1人は逃げて地獄に落ちたという凄惨な出来事のあった、町の過去。そして、作家の過去(これが陰っぽい)。
オカルト作家は、最近の殺人事件を老保安官と共に調べながら(降霊盤!)、過去の殺人事件についても独自に調べる。夜はアル中と言っていいほど飲んだくれる作家は、モーテルのベッドで独り眠りにつき、夢の中で"V"と名乗る少女(エル・ファニング)、そしてポー(ベン・チャップリン)と出会い、灯りを手にしたポーに導かれるまま、過去の事件の真相と自らの記憶の深奥に迫ってゆく。

かくの如くコッポラは、『コッポラの胡蝶の夢』でティム・ロスを直撃した稲妻のような突発的なアクシデントもその後の超常現象もなく、殺人事件という映画の中ではごくありふれた出来事と、片田舎の風変わりな時計台に曰くつきのホテルという舞台装置を用意し、そこに夢と記憶(そして…死)という生理現象をカクテルするだけで、自由自在に時間の織物をこしらえてしまう。

作家はあっち行ったりこっち行ったり、小説のネタを探し求めて、ケースごと持ってきた酒をあおり、保安官に買ってこさせた眠剤を流し込み、時に頭部に打撃を加えられ、いってきますとばかりにモノトーンの夢にトリップする。
しかし、探し物は何ですか?見つけ難い物ですか?と、こっちから夢の中へダイブするのとは対照的に、記憶の方は向こうから足音もなくやってくる。このゴシックでキッチュでホラーなトーンの映画の深層にはメランコリーが潜在しているようだが(陰!)、不意に作家のもとに(見ている我々のもとにも)そのメランコリーが訪れる理由は、次第に明かされてゆく作家の痛ましい過去、記憶にあるらしい。

記憶とメランコリーは、例えばこんな風に訪れる。

自身の著作を抱えて車で各地を巡りながら売り歩いているオカルト作家は、モーテルに車を停める。トランクを開けると、そこには平積みされた新作の本、1ダースほどの酒瓶が入っているボックスのほかに、どうやら売り物ではないらしい1冊の本もある。その本を開くと、そこには少女の写真が挟んであり、そして「この処女作を愛娘に捧げる」というようなことが書かれている。少女は作家の娘なのだ。

借金返済で首が回らないらしい作家は、妻にホイットマンの私家版の愛蔵本を見つけられ売り飛ばされそうになるが、売られるのが嫌ならお金を工面してと頼まれ、新作を書くという条件で前借りを編集者に頼む。インターネット回線でのテレビ電話で話す二人が映る分割画面の片方にいる編集者は、前借りしたいならば新作の粗筋と結末を送るようにと言い渡し、更に「霧の湖」だけではダメだと念押しする。

作家は、車に積んで持ってきたらしい折りたたみ式の机をモーテルの部屋の中で展開し、マックブックを起動し、酒を用意しグラスに氷を入れ、準備万端で『吸血鬼の処刑台』と題された新作の執筆を開始する。おそらくいつものことなのだろう、酒を何杯もあおり、最初の文章を書き始めるが、"There was no fog on the lake"云々と「霧の湖」からつかず離れず、次第に離れられなくなりながら何度も書き直しているうちに、mist, misty mist・・・Vicky・・・と、いつの間にか霧が靄に、そして娘の名ヴィッキーに変わってゆく。どうやら作家は娘を失ったらしく、そのときの記憶が痛みを伴って甦り、作家を苛んでいるらしい・・・。

作家と娘に何があったのか、その謎はもちろん、殺人事件の謎と共に明らかにされてゆく。しかし、ラブリーの陰にあるメランコリーの正体がわかっておしまい、というわけではなく、舌をぺろりと出すようなラブリーなエンディングが待っているのが、この映画のモテるところ。エンドロールに"TWIXT"という紅の文字がどーんと出てきたときに、もう一度『Virginia/ヴァージニア』に惚れ直すことだろう。