聴こえてる、ふりをしただけ

自分を守ってくれるひと、自分にとって大切なひとを失い、突然、世界に放り出されたとき、無防備なわたしたちはどうやって生きてゆくだろう?そして、子どものときにそういう経験をするということは、どんなことなのだろう?


精神科の看護師でもある今泉かおりが監督した『聴こえてる、ふりをしただけ』は、この問いに対して、ファンタジーに逃げることなく、誠実に答えている。



映画は、11歳の少女サチが母を亡くしたところから始まる。
父が残された母の指輪を赤い紐に通してネックレスを作り、「いつでもお母さんがそばにいられるように」と、お守りとしてサチに手渡す。父だけでなく、他の大人たちも皆、「お母さんは見守ってくれている」と異口同音にサチをなぐさめ、サチはその言葉にすがって、母の魂がどこかにあって自分を守ってくれていると信じようとする。


そこに、軽い知的障害があるらしい「みんなと少し違う」少女のんちゃんが転校してくる。小学校高学年ともなれば、お化けや幽霊の存在を信じない子も多い中で、のんちゃんはお化けがいると信じ、お化けが怖いからひとりでトイレに行くことすらできない。
母の魂に見守っていてほしいさっちゃんは、霊魂の存在を信じたいこともあり、のんちゃんとの間に「お化け同盟」とも言うべき関係が結ばれる。サチはのんちゃんがトイレに行くときについていってあげ、ドアの前で待ってあげるかわりに、自分が信じたい母の霊魂の存在への賛成票にのんちゃんの一票も加える。
彼女たちの間には、母を失ったばかりのひとりぼっちの少女と、転校してきたばかりで友だちもおらず「みんなと少し違う」少女との間に自然に生まれるであろう精神的紐帯もあるが、霊魂の存在をめぐるリアリスティックなギブ&テイクの関係もあるだろう。サチはのんちゃんがトイレにこもっているとき、あるいは教室の窓際でのんちゃんと話しているとき、首にかけた指輪のお守りを手に取り、じっと見つめる。のんちゃんがお化けを信じることで、サチの母の指輪がお守りとして効力を持ち、のんちゃんが指輪を見て「いいなあ」と羨ましがることで効力は更に増すのだろう。


更に、サチは、同級生から「12時に合わせ鏡をすると幽霊が出る」という噂を聞き、毎夜12時前に起き出しては食卓で二つの鏡を向かい合わせにして、母の霊を召還しようとする。暗い夜の部屋で少女が鏡を合わせるこのシーンは、『ミツバチのささやき』でアナがフランケンシュタインに現れてほしいと願って"Soy Ana..."と呼びかけるシーンを彷彿とさせるが、そのファンタジーが成就することはない。そうして、「お母さんは見守ってくれている」という大人たちのクリシェは次第に虚しく響くようになる。


そんな折、理科の授業で「うれしい」や「悲しい」と感じる心の動きも脳によって生み出されていると知ったのんちゃんは、懸命に考えた末、「お化けは存在しない」というコペルニクス的転回を迎え、突如としていわゆる唯物論者になる。お化けはいない、だからトイレも怖くなくないと、至極まっとうに推論し決定したのんちゃんは、ひとりでトイレに行けるようになる。そして、のんちゃんの唯物論はサチの僅かな希望を打ち砕き、ひとりでトイレに行けるようになったのんちゃんとサチとの間のギブ&テイクの関係も崩れてしまい、もはやのんちゃんが羨ましがることのない指輪もお守りとしての効力を失う(のんちゃんの指摘が真実であると直感するサチは、のんちゃんに対してトイレで報復を試みるが、自らの力でお化けの存在を否定し恐怖を乗り越えたのんちゃんには、その報復が通用しない。のんちゃんとサチとの間の決定的な断絶)。


「お母さんが見守ってくれている」という大人たちの言葉は欺瞞で、母の指輪を肌身離さず持っていることで母が傍にいてくれるのだというお守り理論も欺瞞。どんな言葉も物も母の不在を埋めることはない、母亡き今、母は単にいないのだ、という悲痛な現実に直面させられるサチ。いないものはいない、いま・ここにあるものはいま・ここにある、という「女は女である」式のトートロジーは、殊に喪失体験に適用されるときは、残酷でしかない。「指輪は指輪である(お守りではない)」「12時の合わせ鏡は12時の合わせ鏡である(母の霊は召還されない)」「いないひとはいない(・・・)」というトートロジーにより「寄る辺ないサチは寄る辺ない」ということが露になるのだ。


サチが少しずつ「母はいない」という現実を受け容れ、その中でひとりでも生きていこうとしてゆくきっかけとなるような派手な出来事はない。相米慎二における通過儀礼、すなわち『台風クラブ』における台風が訪れる夜、あるいは『お引越し』におけるひとりきりの冒険の夜のような決定的な出来事が起こるわけではない。ただ、「捨てた指輪が戻ってくる」「不仲になった友だちと仲直りする」「枯れた花がまた咲く」といった日常の中での細々とした生成変化が積み重ねられるだけである。ドラマはない、日常はある。しかし、これもまた、否、これこそが「生」であると言えるだろう。
ナボコフが「円がほどけて、螺旋形になると、悪循環から解放されるのだ。つまり、自由になるのだ」と書いているが(※ナボコフbotからの情報)、いない母はいないというトートロジーを受け容れつつもそこから脱出できるのは、日々の生成変化が円をほどいて螺旋に変えたからだろうか。


・・・さて、この映画で表現上の問題となるのは、母の不在をどう描くかという点と、もうひとつ、母を亡くしたサチがその死を受け容れ生きていく様をどう描くかという点にあるように思える。


まずもって、不在を描くことは難しい。
母の死後、台所で調味料を見つけられず目玉焼きすら焦がしてしまう父、母のかわりに料理をする近所のおばさんは、母がいた台所という物理的スペースを埋めることはできるが、母のかわりを果すことはできない。これはひとつの不在の見せ方だろう。
また、おそらく生前に母が座っていたらしい食卓の椅子とそこにかけられたエプロン。サチも誰も、その椅子とエプロンに手を触れることができない。食卓にはサチや父が座り、その周りを近所のおばさんが立ち回るが、主を失って空席のままの椅子。これも不在の見せ方だろう。
ただ、母という家庭の中心を失った家の絶対的な虚ろさを見せるやり方としては、どうも物足りないような気もした(というより、こうしたら納得、というやり方が思い当たらない)。
おそらく演出上の狙いだろう、サチの母がどんなひとだったのか、その一端というか手がかりが明かされるのは、映画のいちばん最後になってからである(フラッシュバックによる母をめぐる記憶なども一切ない)。わたしたちは、サチがその不在を哀しむ母のことを何も知らされないまま、映画の中に投げ込まれるのだ。だからだろうか、どうしてもサチが感じる母の不在と、観客であるわたしたちが感じるサチの母の不在との間には溝が生まれ、サチとの感情的な隔たりを感じてしまう。あるいは、意図をもって共感や叙情は排除されているのかもしれないが。


しかし、今泉かおり監督は、母の不在ということの切実さはともかく、母のいない世界でサチが生きる時間と空間に見る者を連れて行くことには、間違いなく成功しているだろう。
カメラは家、通学路、学校という生活の場(小学生の住む世界は狭い)をサチに付き従うように捉えていく。映画はフィルムをつまむことで人物を消すことができるし(マキノ省三がずっと前にやってる)、特殊効果を使って画面に幽霊やこの世ならざるものを登場させることもできるし、今やCGを使えば何だってできる。ただ、カメラそのものは、あるものは撮れるが、ないものは撮れない。今泉かおり監督は、映画のトリックは使わずに、カメラをサチにまっすぐに向けるだけで「あるものはある」「ないものはない」という端的な真実を暴いてゆく。その意味で母を亡くした少女を単に撮るということ自体が残酷な行為のようにも思えるが、しかし、殆ど片時もサチの傍を離れることなく、時にサチの真正面からその表情を見据えるカメラは、たしかにサチのありのままを受け止めている。サチとカメラとが向き合う様のあまりにも凜としたまっすぐさに、戸惑いすら覚えた。この映画には、確かに、ほんとうのことがある。