妖術への病的な恐怖としての不安

アーサー・クラインマン『精神医学を再考する』(みすず書房)より。


 マンソンと共同研究者[Manson et al. 1985]は、精神医学的な疫学研究と民族誌学的研究を組み合わせて、ホピ・インディアンの抑うつ状態(depressive illness)についての調査をおこなった。まず、人類学者と精神科医がチームを組んで、ローカルな文脈の詳細な人類学的理解にもとづきながら、標準的名診断面接用基準(DIS)をホピ語に総合的に翻訳した。その次に彼らは、ホピの人びとが人間の精神や魂に影響を与えると信じているホピの病気のカテゴリーを明らかにしたのである。この一覧表のなかから、彼らは、北米の抑うつ神経症のカテゴリーとそれぞれ異なった形で重なり合う五つの病いのカテゴリーを確認した。これら障害の土着的カテゴリーを英語に翻訳すると、「気苦労病(worry sickness)」「不幸(unhappiness)」「傷心(heartbroken)」「飲酒の有無によらぬ狂ったような酩酊(drunken like craziness with or without alcohol)」「失望、不機嫌(disappointment, pouting)」となる。これら先住民の疾患概念のための諸症候は、彼自身がアメリカ先住民の人類学者であるマンソンと、その同僚の精神科医によって開発された診断基準に盛り込まれていた。「不幸(unhappiness)」はDISのなかの抑うつ気分と強い相関を示したが、他のいずれのうつ病症状とも相関は見られなかった。一方で「傷心(heartbroken)」はうつ病に付随する多くの症状と強い相関を示した。このようにして、複数の専門家の学際的研究チームは、既存の北米の精神医学的カテゴリーに包摂されることのない、たんに標準的名北米の診断基準を用いるだけでは見過ごされてしまうような、障害の、ローカルで重要な現れ方を明らかにすることができたのである。

 フィールド[Field 1958]は、西アフリカのアシャンティ(Ashanti)の人びとを調査したが、ローカルな癒しをおこなう寺院で、不安がたいていは自責か妖術への怖れとして表現されていることを見いだした。ナイジェリアでおこなわれた研究では、ヨルバ(Yoruba)の人びとに見られる全般性不安障害は、悩み事、妖術の夢、身体的訴えの三つの主要な症状群と結びついていることを報告している[Collis 1966; Anumonge 1970; Jegede 1978]。これらのそれぞれがヨルバの文化では適切なものとして固有の形式を付与されている。患者たちのあいだでとくに支配的な悩みは、子孫を作り出すことと大家族の維持とに結びついたものである。ランボー[Lambo 1962]は、彼自身がヨルバ出身の精神科医であるが、かつて「妖術への病的な恐怖」と「アフリカの急性の不安状態」とのあいだには近い関係があると指摘していた。
 抑うつと不安障害における普遍的症状と文化特異的症状とが結びついた例は、イラン人[Good et al. 1985]や中国人[Kleinman and Kleinman 1985]、アメリカ先住民[Manson et al. 1985]で報告されている。アメリカ先住民についての研究では、他の集団では重篤抑うつがあることの根拠と考えられかねない特定の徴候が、この民族集団のメンバーにとっては標準的に見られることが明らかにされている。それにはたとえば、「遷延化した」悲嘆(prolonged mourning)、「平板な感情(flat affect)」、霊的存在からの幻聴、最近なくなった者の姿を見る幻視などが含まれる[O'Neil in press]。

 抑うつうつ病〕や不安障害のような精神疾患において、病いの認識と経験に文化がどのような影響を与えているかを考察するのにもっとも有効なのは、これらの障害と系統的類似性を示す文化結合症候群について分析することであろう。というのも後者の症状についてはかなり詳細な記述がなされているからである。マンソンら[Manson et al. 1985]は、ホピ〔アリゾナ州の北米先住民の部族〕の人びとのあいだで、文化結合症候群の一つは抑うつの症状群と大きく重なっているが、一方で、重なっているように見えるほかのいくつかの症状は実際には明確に区別できるものであることを明らかにしている。ジョンソンら[Johnson and Johnson 1965]は、ダコタのスー族の人びとに、「トワトゥル・イェ・スニ(towatl ye sni)」(つまり「まったく失望した」"totally discouraged")と呼ばれる症候群があるのを見いだした。これはさまざまな西洋の精神病理のカテゴリーと食い違うものであるが、著者たちにはとくに抑うつに近いものという印象を与えている。しかし「トワトゥル・イェ・スニ」というレッテルを貼られた患者の信念と行動は強く文化的に形作られていて、剥奪の感情をともなったもので、自分の考えが亡くなった親族の住まう場所を目指して旅をする経験をともない、最良のときとしての過去へ向かい、死者に近づくために死を願い、霊魂や精霊に強い関心を示すのである。

 しかし、なにをもって狂気とみなすかという大きなカテゴリーについてさえ、細部では文化によって異なっており、どの症状をもっとも特徴的と考えるか、どの程度の頻度と強さで症状が出現するとそのレッテル(狂気)が当てはまるのか、スティグマがどんな性質でどの程度のものかなどさまざまである。たとえば、ジェンキンス[Jenkins in press]によると、メキシコ系のアメリカ人の家族は、彼らの統合失調症患者の問題をしばしば「ネルビオス(nervios)」(神経過敏 nerves)と同一のものと見なすが、これは狂気という言葉を使うよりもスティグマ化が少なく、家族が否定的な感情表出することも少なくなり、「病いの人物を社会的集団の一員として組み入れ続けることを別のやり方で可能にしている」。リンら[T.Y.Lin and M.C.Lin 1982]によれば、中国においては西洋よりも個人を狂気と分類することのスティグマ性が強く、それはスティグマが病気の人だけでなく家族全体に及ぶからであるとしている。そこからわかるのは、もっとも重症の精神医学的障害であっても、文化によって共通する点と異なる点の療法があるということである。


・・・というひとつひとつの比較文化研究のダイジェストを読む限りでも、おそらく、医療人類学的アプローチは医学の各分野の中でもとりわけ精神医学で有効そうな気がする。
この本の中には、日本における幾つかの精神疾患の文化固有性にも言及されていて、われわれがそうであることが当たり前であると思っているものが他の国・文化圏からすると実はそうでもないことが明らかにされており、そこに世界(またはアメリカ)で標準とされる診断基準をあてはめても必ずしもぴったりフィットしなさそうなことがわかる。
日本の中でも、例えば子どもに対する影響力をもつアイコンがなまはげである地域とガオーさんである地域とで、あるいはもっと漠然と冠婚葬祭のやり方・しきたりが異なる複数の地域の間で、文化特異的な症候上の差異があるのかもしれないし、同じ地域でも時代の変化に伴う社会の包摂性や人口流動性の変化による症候上の変化があるのだろうが、ここからさきは齋藤環さんにおまかせしよう。。。



精神医学を再考する――疾患カテゴリーから個人的経験へ

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