E.T. PHONE HOME, B GOOD

初めて映画館に行ったのは、小学生になるかならないかの頃だったか。
小さい頃の記憶はあやふやだけど、映画館で初めて見た映画が『E.T.』であることはたぶん確かだ。
その次に覚えているのは『南極物語』で、その次がちょっと時間があいて『天空の城ラピュタ』、のような気がする。自信はない。
当時住んでいた、というか、生まれ育った芦屋には、市の規制のせいか、映画館とパチンコ屋がなかった。溜まり場になるようなところを作ると、風紀が乱れるとか景観を損なうということだったのか。市内で映画が上映されるときは、ルナ・ホールという名の芦屋川沿いの市の会館が使われていた気がする(ラピュタはそこで見た、はず)。ともかく、あまり日常的に映画館で映画を見られる環境ではなかったから、幼少の折に見た映画は、小さなブラウン管の中の端っこがトリミングされたものが殆どだった。


E.T.』は随分前はテレビで放映されていたから、お茶の間でも何回か見たかもしれない。そのわりに、どんなだったかよく覚えていない。『南極物語』のことは、リキがシャチに襲われる、風連のクマが大陸に向かって駆けていって消えてしまう等々、よく覚えているのに。分厚いパンフレットを何度も読み返していたからかもしれない(数年前にBSで放送されているのを見たときも、ほとんどのシーンを覚えていた。犬の死に様が思ってた以上にヒドい、とは思ったが・・・)。


いま、『E.T.』は午前十時の映画祭の一本に選ばれ、全国各地で順ぐりに上映されている。
そして、住んでいる街にフィルムがやってきて、約30年ぶりに劇場で見ることができた。


E.T. [DVD]

E.T. [DVD]


覚えているシーンは結構あった。全然覚えていないシーンもたくさんあった。大人になって見たから、また、他にもいろんな映画をたくさん見た後だからかもしれないが、思っていたのと随分印象が違っていた。ずっと前から知っているのに、実は何にも知らなかったような。


両親が別居して、お母さんと兄、妹と暮らしているエリオット少年が、宇宙船に置き去りにされたE.T.と出会い、指の怪我を治してもらったり、自転車で一緒に空を飛んだりして仲良くなって、そして自分の星に帰るE.T.と別れる・・・という、あらすじレベルでの記憶はまちがっていなかった(そこは余程のとんちきでない限り、まちがいようがない)。
が、今見ると、それどころではなかった。エリオットとE.T.は、文字通りの一心同体、契りを交わした運命の共同体だったのだ。


そもそも、二人の仲良くなる様子がちょっとおかしい。
昔見たときはE.T.の性別なんて気にしなかったし、セックスのことなんて頭をかすめることすらなかったが(だいいち、わたしが「セックス」という言葉を知ったのはこの映画を初めて見てから1,2年後のことだ)、今回あのしわくちゃのルックスのクリーチャーを見ながら、どうも裸のようだけど、性器はあるのだろうか、もちろんあるんだろうから性器を露出しているんだろうか、おそらく両性具有ではなさそうだけどあの頭でっかち胴長短足の体型でどのようなセックスをするのだろうか・・・と不謹慎な想像をしていた。
そういう目で見ていると、E.T.がチョコにつられて初めてエリオットの部屋に来たときに、エリオットがE.T.にブランケットをかけるところや、朝になって日の光が部屋に差し込んでくる中、目覚めたエリオットがわざわざブラインドを下ろして暗くしてからE.T.と向き合うところは、どうも性的な印象をもたらすというか、ありていに言えば、知り合ったばかりの男と女が裸を見られる羞恥心もあってシーツで体を覆ったり部屋を薄暗くしたりするのと同じように見えるのだ(その後、エリオットが兄のマイケルや妹のガーティ(ドリュー・バリモア!)にE.T.を紹介したとき、E.T.は男なのか女なのかと聞かれたエリオットは間髪いれず「男の子!」と答えるのだが、このシーンにそこはかとない違和感を覚えた。いや、男の子でいいんだけど、やっぱりE.T.の性別は大事だよな、と)。


そうやって次第に仲良くなっていったエリオットとE.T.が初めてはなればなれになり、エリオットは学校に行き、E.T.はお留守番をするシークエンスがある。E.T.はエリオットの部屋を出て、キッチンに向かい、冷蔵庫を開けて食料を探し、ビールを飲み、テレビをつける。一方、エリオットは理科の授業でその日は蛙の解剖の日、少し離れた席には気になる女子が座っている。次々にビールを飲んでいよいよ酔っ払うE.T.と、かわいい女子に見られているにもかかわらず大きなゲップをしてしまい、更には欠伸をして眠気と戦っているうちに椅子から滑り落ちて撃沈するエリオットとがクロスカッティングされる。酒を飲んだE.T.と酒を飲んでないエリオットは共に酔っ払っている。どうも、ふたりは身体的にシンクロしているらしい。



そして、E.T.がテレビでジョン・フォードの『静かなる男』の、ジョン・ウェインが自分の家(イニスフリー!)に忍び込んだ男勝りのモーリン・オハラを捕まえ、引き寄せ、キスをするシーンを見ていると、まさにそのとき、ビンの蓋を開けて蛙を解放したエリオットが気になるクラスの女子に、ちょうどジョン・ウェインモーリン・オハラにしたようなキスをする、あのシーン。E.T.が捕捉した視覚情報がエリオットの脳に伝わり行動化させるテレパシーというか、おおざっぱに言えば、離れていても心がひとつになっているのだ。




(『静かなる男』より、30分あたりから)


こういう描写の積み重ねがあるからこそ、高熱を出したエリオットと瀕死のE.T.とが隣り合うベッドに寝かされ、最初は完全に同期していた脳波が次第に乖離してゆき、エリオットが回復したにもかかわらず(だからこそ?)E.T.が心肺停止に陥るシーン、そこからE.T.が蘇生してエリオットをはじめとする少年たちと共に脱走するシーン(自転車と車の素晴らしいチェイシング!ジョン・ウィリアムズのスコアがいよいよ盛り上がる、自転車が空を飛ぶシーンには、童心に戻って素直に感動する)、そして、E.T.を迎えに来た宇宙船を前にしての二人の別れのシーンは、一緒にいるべき二人が離れることの痛切さを伴って強く胸を打つ。いよいよE.T.が宇宙船に乗り、扉がゆっくりと閉まりE.T.の姿が見えなくなるカットは、今までに見た中でも最も切ないアイリス・アウトかもしれない。


という具合に、こんな映画だったんだ、と率直に驚きながら、後半はボロボロ泣いてしまった。涙は鼻涙管を通って鼻腔に流れ込んでずるずるの鼻水をあらかたウォッシュアウトし、映画が終わった後には鼻がすっきりしていた。


ところで、E.T.を探索していたNASAがエリオットの家に乗り込み、瀕死のE.T.を捕獲して救命処置を施しているとき、「10歳の頃から、E.T.を待っていた」と話す科学者が登場する。10歳のときにE.T.に出会えた少年と、大人になってから待ち望んだE.T.に辛うじて出会えた元・少年。この科学者と対照することで、エリオットの孤独と僥倖は際立つ。エリオットはE.T.に「いっしょに来て」と請われたとき、家族と共にここ=ホームに残る選択をするが、もしこの出会いがなかったら、『未知との遭遇』のリチャード・ドレイファスのように大人になってからホームを捨てていただろうか。