デコちゃんとマキノの映画渡世(阿片戦争編)

吉屋信子の原作を石田民三が映画化した『花つみ日記』に、高峰秀子が女子生徒の役で主演している。当時15歳のデコちゃんは、既に子役として何本も映画に出演してきたベテラン女優さんだからだろう、さすがに同世代の少女たちに囲まれると、いくら年齢的にはまだ少女とはいえ立ち居振る舞いがおとなびて見える。それが吉と出ているのだろう、女学校を辞めて舞妓になり、やがて病に臥せりながらも、絶縁した元親友の兄が出征するというので、あれは道頓堀の戎橋だろうか、路上に立って道行く女性たちに千本針を縫ってもらう・・・という少女の成長を見事に演じている。


映画は物語上、大阪の置屋の嬢はん(とうはん)である高峰秀子が東京からの転校生(清水美佐子)と親友になり天国でも一緒になりたいと誓い合うほど仲睦まじく過ごす前半と、二人が共に慕う先生(葦原邦子)をめぐる行き違いで絶交してからの後半に大きく分かれる。夏服の白いブラウスに白い帽子、乱反射する川の水面、ひとが行き交う路上、バスの窓枠までが太陽の光を浴びて白が眩い前半、そして、衣替えした冬のセーラー服を来た女子生徒たちに、制服を舞妓の衣装に着替えたデコちゃんと、暗さの中での可憐な華やかさが際立つ後半という具合に、画面から受ける印象も大きく様変わりする。デコちゃんの衣装が、制服→舞妓の着物→寝巻きと変化してゆく衣装劇としても魅力的だった。


高峰秀子の追悼特集アンコールということで『花つみ日記』の後に上映された『阿片戦争』、この作品に出演した頃のデコちゃんは、18歳か19歳ぐらいか。『花つみ日記』の4年後くらいになるが、デコちゃんはむしろ『阿片戦争』での方が幼く見える。
戦前・戦中のマキノ雅弘(正博)作品には、『昨日消えた男』や『阿波の踊子』など幾つかデコちゃんが出ているものがあるが、どうもマキノのデコちゃんというと「かわいそうな子」が多い気がする。幼い印象はそのことと関係するかもしれない。
阿片戦争』のデコちゃんも、盲目の少女で姉の原節子と生き別れになったところを阿片中毒のルンペンに捕まり、僅かな阿片と引き換えに悪いひとたちに身柄を引き渡され、しまいには悪党たちといっしょくたにされて処刑されかけるという散々な目にあう。
自伝にも、『阿片戦争』に関する言及はあるが、この頃に関する記述では、山本嘉次郎黒澤明大河内伝次郎谷崎潤一郎のことが目立つものの、監督・マキノについてはあまり触れられていない。


♪風は海から吹いてくる
  沖のジャンクの帆を吹く風よ
  情あるなら教えておくれ
  私の姉さん どこで待つ
 昭和十八年一月に封切りされた大作「阿片戦争」の主題歌である。
 演出は、マキノ正博。主演の林則徐には歌舞伎界から市川猿之助が起用され、英国人には、青山杉作、鈴木伝明が赤毛のカツラで登場、原節子と私は姉妹の役で出演した。私の役は盲目という設定だったから、まばたきが出来ないのが辛かった。まばたきというものは、するまい、と意識すればするほどパチクリとやりたくなる始末に負えないものである。「阿片戦争」での私の収穫は、「丸山定夫」という優れた俳優と共演したことだった。丸山定夫とは昭和十四年に「われ等が教官」という映画で父娘になったけれど、そのころの私はまだ十五歳のチビで、彼の演技の緻密さなど分かるはずがなかった。「阿片戦争」では阿片中毒の浮浪者に扮したが、「芸というのはこういうものか」と私は教えられ、うなった。以来、丸山定夫杉村春子についで、私の尊敬する俳優になった。といっても、名優丸山定夫の生命は、それから三年も経たぬうちに消えてしまった。昭和二十年八月六日、慰問先の広島で原子爆弾に遭い、「熱い、熱い」と言いながら、お寺の井戸掘で水をかぶりながら絶命したという。

高峰秀子著『わたしの渡世日記(上)』より)


わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈上〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈下〉 (新潮文庫)

わたしの渡世日記〈下〉 (新潮文庫)


「十五歳のチビ」が演じた『花つみ日記』の少女役はよかったと思うが、それはさておき、ともかく女優・高峰秀子には監督・マキノ雅弘はさほど大きな影響を与えなかったのかもしれない。共に自伝のタイトルに「渡世」が入っている二人は、次郎長三国志になぞらえれば、清水と黒駒あるいは保下田、ほどではないかもしれないが、清水と身受山ぐらいに離れたところにいたのか。マキノに登場する女優たちの多くが「マキノの女」とでもいおうか、円を描くように歩く足さばきや、畳の上にしなだれる所作など、振り付けられたマキノ一流の型を演じ、それが演出にぴったりはまるが、高峰秀子はそのような型を嫌って個性を際立たせようとする(というのはわたしの印象だけれども)から、二人は合わなかったのかもしれない(ちなみに、『阿片戦争』での原節子は、高峰秀子との生き別れと再会、河津清三郎との月夜の逢瀬、夜会でのダンスなど、しっかりマキノの女優になっていた)。



(『わたしの渡世日記(上)』より、昭和13年原節子高峰秀子


それはそうとして、マキノ。
マキノの映画はしこしここつこつと見てきたつもりだけど、なにせ作った映画が二百数十本とフィルモグラフィがギネス級に膨大だから、たぶんまだ全体の四分の一ぐらいしか見てないことになる。となると、マキノのことはそれだけしか知らないということで、初見の作品で驚くようなことがあったって驚くこと自体は驚くべきことではないのだけど、それでも『阿片戦争』を初めて見てけっこう驚いた。


まず、中国人役を日本人が演じるのは同じアジア系だしいいとして、イギリス人役まで日本人が演じて日本語をしゃべっている。ハリウッド映画なら別に驚くことでは全くないのだが、テルマエ・ロマエのだめカンタービレから遡ること数十年前の日本映画にこんな大胆さがあったとは。しかも、イギリス人たちは皆、付け鼻をしているかのような鼻の高さ。そこそこ大きなスクリーンで16mmフィルムを見る限り、不自然な付けぎわは見えなかったが、あれは全部自前なのだろうか。


そして、円谷英二との特撮コラボと、大砲での爆撃など迫力ある戦闘シーン。アメリカ映画なら、ジョン・フォードなど、実際の戦争を撮影した映像を全面的に使った映画もあるが、そんなことしなくても特撮によって船や街が爆撃され破壊されるシーンでかなりいい線まで再現できることに、今更ながら新鮮な驚きを感じた。林則徐を演じる市川猿之助阿片戦争突入にあたっての演説をぶつシーンで焚かれるスモークなど、マキノというより円谷プロの作品かと思うところもあったほど。


更に、1943年のこの作品で、相当に大規模なオープン・セットが組まれ、その中でモブ・シーンがふんだんに使われていることには(見ながらニコラス・レイの『北京の55日』を思い出した)、これが本当に戦時中の日本映画なのかと目を疑った。映画会社だけは資金に余裕があったのか、あるいは、既に国全体で使えるフィルムに制限がかかっていて製作本数が絞られることで逆に人と金を集中できるようになったのか・・・等々、いろいろ考えてしまった。


というわけで、どうも不審というかマキノにしては例外的に思える点が多々あったので、マキノの自伝にあたってみた。


 『ハワイ・マレー沖海戦』の撮影中に、会社が、私にも急遽戦争映画を一本撮れと云って来た。兵隊に行ったこともない私が、戦争映画を撮れといわれたって―と思ったが、もう企画も決定してしまったんだという。
 題名は『阿片戦争』。八月からクランクインすることになった。『阿片戦争』の撮影直前に、私は渋谷区代々木富ヶ谷町に初めて家を買って移転した。
 『阿片戦争』は「国策映画」と銘打ってアングロサクソンと戦う中国広東の歴史を描くものであった。脚本はこれも小國英雄が書くことになったが、小國は、フィリピン戦線における日本軍の活躍を描く『あの旗を撃て/コレヒドールの最後』のロケーションのために、監督の阿部豊キャメラの宮島義勇や共同脚本の八木隆一郎と共にフィリピンに行ってしまった。
 そんなことから、急いで書いたらしく、脚本の出来がどうも良くない。これでは書き直さなければどうにもならない。で、誰れに書き直させればいいだろうかと松崎啓次プロデューサーが云うので、私は黒澤明を推薦した。黒澤明は当時まだ助監督だったが、すでに彼の才能には注目すべきものがあったし、たしか何本かシナリオも書いていたと思う。映画化はされなかったようだが―。
 私は黒澤明を箱根の強羅の旅館に連れて行ってカンヅメにし、『阿片戦争』の脚本を渡し、原作はD・W・グリフィスの『嵐の孤児』であることなどを説明して、書き直してくれるようにたのんだ。期待にたがわず、とても良いホンが出来上がった。中国のセットは私には全然解らないので、デザイナーの久保一雄に一任した。
 『阿片戦争』の主演は市川猿之助に決った。久しぶりの対面だった―マキノプロダクション時代以来の御無沙汰であった。
 長谷川一夫も出ることになったのだが、衣笠貞之助作品(『川中島合戦』ではなかったかと思っていたのだが、調べてみたらちょっと時代がずれるので、たぶん今井正と共同の『進め独立旗』の方だったかも知れない)の撮影が長引いて、長谷川一夫の身体がなかなかあかず、ギリギリ八月末まで待ったのだが、会社は市川猿之助を一と月しか借りておらず、とうとう長谷川一夫の出演はあきらめざるを得なかった。私が東宝へ来て撮った作品で、初めて長谷川一夫が抜けることになった。その代りに、河津清三郎坂東好太郎を借りて撮影を続けた。
 『嵐の孤児』の姉妹はリリアン・ギッシュとドロシー・ギッシュが演じた。妹のドロシー・ギッシュが盲目で、二人は別れ別れになる。『阿片戦争』では原節子と高峰デコちゃん(秀子)が姉妹になり、デコちゃんが盲目の娘になった。
 この映画で、河津清三郎が馬に乗って、中国のアーチをギャロップで通り抜けるシーンがあった。もちろん、ここは馬術の心得のある人に吹替えをやってもらわなければならない。で、馬事公苑の先生にお願いした。
 ところが、アーチのところで、馬が恐がって止まってしまう。堀があるので飛び越して行くのが無理だということになった。しかし、アーチを通らないと、こっちは困る。とうとう私が河津清三郎の代役をやることにして、衣装を着て、馬に乗って一回やってみると云ったら、そりゃ無茶だ、と云って馬事公苑の先生が怒り出した。競馬の騎手に乗馬のことを教えているほどの大先生だから、その大先生に出来なかったことを、私が出来るはずがない、と云うのだ。
 当然と云えば当然だが、私は昔馬に乗ったことがあるんだと云って、「こらしょッ」とばかりに馬に股がって、そして、先生の見ている前で、アーチに向かって馬を走らせた。馬ならお手のもんですわ。
 アーチを通り越す前に、馬がどの地点で恐がって止るか、大体勘で解っていたので、その寸前に、私は手綱を輪にして馬の両目をパチパチッと殴った。馬には悪かったが、一瞬馬は目が見えなくなったために、堀もアーチも目に入らず、恐怖を忘れたはずだ。そこでパーッと追い込んだら、見事にスパーッと抜けよった。先頭の一頭が抜けたもんだから、あとに続く馬も全部うまくアーチを抜けた。
 ところが、馬が止まらないので、これには往生した。目が見えないもんだから、一目散に走る。やっとセットの塀のところで止めることが出来て、助かったのだが―。
 「それにしても、よく抜けられたなァ」と馬事公苑の先生にはほめられた。だが、馬の目を一瞬とはいえ潰したなんてことは云えない。さいわい、先生にも気づかれずに済んだ。
 もう一つ、この映画では、今でこそ云えるトリックを使った―呎数がちょっと足りなくなってしまって、アメリカ映画のネガを失敬して入れてしまった!アタマには『ベンガルの槍騎兵』、ラストには『シカゴ』の数カットを使用させていただいたのであった。
 『阿片戦争』の音楽は服部良一。服部良ちゃんと初めて組んだ作品だ。
 この映画は十二月中に仕上げた。私は、子供がボチボチ歩き始めていたし、なるべく家にいる時間をつくって、一緒に遊んでやりたかったので、仕事は出来るだけ早く仕上げようとがんばったのだ。
 話は少し前になるのだが、『阿片戦争』をやると発表した時、「わしは阿片の親分だ」と云ってかかって来た電話があった。里見機関からだという。びっくりして、電話で云われた通り、帝国ホテルへ会いに行った。都留子もびっくりして、私も一緒について行きます、もし殺されたら―などと云うので、一緒に行ったら、大変歓迎されてしまった。
 里見機関のボスは里見甫という人で、かたわらに、大連の館主をやっていた小泉友男氏の弟である小泉武雄もいるので、「何んだ」ということになり、「おどかすなよ」と笑ったものだ。
 東宝が中国で撮影する金は全部里見機関に換えてもらっているとのことだった。里見甫氏は、昔、華北満州で新聞記者をやっていたそうで、それから満州国通信社の初代主幹になり、阿片の取引きをするようになった。
 「アングロサクソンの代りにわしがやっとるんだ」
 と里見氏は云った。それから、こうも云った。
 「マキノ君、二十万円やるから、上海へ来い。これはわしの罪滅ぼしだ。たしかに現在の阿片はわしが握っている。しかし、儲けてはいないんだ。『阿片戦争』という映画を上海で撮れ」
 中国にも林則徐という阿片禁止のために戦った偉い武将がいたんだという映画を撮ってくれ、というのが里見甫氏の意見だった。
 「わかりました」と私は答えた。「二十万円は東宝へやって下さい。わしはそんな金はほしくない」
 一時は里見機関のバックアップでこの映画の上海ロケが実現しそうになったのだが、原節子の義理の兄になっていた監督の熊谷久虎が、
 「あんあとこへロケーションに行ったら、もう帰れんぞ」
 と猛烈に反対した。私は熊谷に、
 「なァ、帰れんと云うたって、飛行機で三時間で帰って来れるやないか」
 と云ったのだが、どうしても納得しないので、日本で撮ろうということになって、沼津にオープン・セットを建てた。
 ものすごく大規模のオープン・セットで、それにみあうだけの人海戦術も必要だったが、エキストラが足りない。で、エキストラは皆、中国人の役だったから、笠を二つずつ持って歩き、これを俯瞰気味に撮って(あまりキャメラを上げてしまうとバレてしまうので、キャメラマンの小原譲治が大変苦労した)、二倍の人数に見えるようにしたものだ。


(『マキノ雅弘自伝 映画渡世・地の巻』より)


映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝

映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝

映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝

映画渡世・地の巻―マキノ雅弘自伝


・・・そういうことだったのね。
おっと、あまりにもおもしろくて、まるまる引用してしまった。マキノは映画も爆発的におもしろいが、語りも爆発的におもしろい(ロベルト・ボラーニョの小説と同じくらい、マキノのナラティブには人を惹きこむ力がある)。
ちなみに、この後には、『阿片戦争』の脚本の手直しを黒澤明に手伝ってもらったお返しに(黒澤明の名前はクレジットには入っていない)、黒澤のデビュー作『姿三四郎』に幾つかアドバイスをしたエピソードや、『阿片戦争』のフィルムを持って上海に試写に行き(『姿三四郎』はもともとマキノの元に来た話だったが、この上海行きの予定があったため、マキノはキャスティングだけして、黒澤を監督に推挙したという)、その後の宴会で一緒に踊った片言の日本語をしゃべる女性を日本のスパイと見抜き、女性の腹にピストルを突きつけた後、天井めがけてピストルを撃つというジェームズ・ボンドのようなエピソードが紹介される。マキノの映画渡世はまだまだ続く。。。



(『マキノ雅弘自伝 映画渡世・地の巻』より、『阿片戦争』のセット前での集合写真)