アニュータ、気をつけて

チェーホフ『アニュータ』(松下裕訳)より

 「右肺は三つの部分から成っている……」と、クロチコーフは暗記する。「その範囲!上部は前胸壁で第四、第五肋間に達し、側面では第四肋骨に……背後はスピナ・スカプラエ(肩甲棘)に達する……」
 クロチコーフはたったいま読んだところを思い描こうとして、天井を見上げる。けれどもはっきりとは想像できなかったので、チョッキの上から、上のほうの肋骨を手で探ってみた。
 「肋骨ってやつは、ピアノのキーのようだな」と彼は言う。「何番目か、ごっちゃにしないようにするためには、どうしても慣れておかなくては。人骨や生体でよく研究しなけりゃならんなあ……。おい、アニュータ、稽古台になってくれないか!」
 アニュータは刺繍の手を休め、上着を脱いで、背すじを伸ばす。クロチコーフは彼女と向かい合って腰かけ、むずかしい顔つきをして、肋骨を数え始める。
 「ふむ……。第一肋骨には直接さわれないんだな……。鎖骨の陰になってるからな……。ほら、これが第二肋骨だ……。なるほど……。これがほら第三……。これがほら第四……。ふむ……なるほど……。どうしてそんなに体を縮めるんだ」
 「手が冷たいんですもの!」
 「さあ、さあ……死にやしないよ、くねくねするんじゃない。そうすると、これが第三肋骨で、これが第四、と……。見かけはずいぶん痩せっぽちのくせに、あばら骨はなかなかわからないんだな。これが第二で……これが第三、と……。いや、これじゃアこんがらがって、はっきりしない……。書いてみなくちゃ。おれの木炭筆はどこだったかな」
 クロチコーフは木炭筆を取って、アニュータの胸に、何本かの平行線を、ちょうど肋骨の上に書く。
 「これでよし、と。何もかも、手に取るようにわかるぞ……。さあ、これなら打診もできるし。ちょっと立ってみてくれ!」


ん?これは……おっぱい目当て?!
「これがほら第三……」の「……」という無言の間にアニュータの体をなめまわしているだろう、明示されない視線や手つきがいやらしい。
そして、木炭筆で……ああして……こうして……って、変態!


六号病棟・退屈な話(他5篇) (岩波文庫)

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