タクシー運転手あれこれ 〜2666、ライク・サムワン・イン・ラブ

(舞台はロンドン。フランス人、スペイン人のふたりの男、そしてその両方と関係をもつイギリス人の女が、タクシーに乗り込む。客はみな文学研究者)


 パキスタン人の運転手は、最初の何分間かは自分の耳を疑うかのように、バックミラーに映った彼らを黙ってみていたが、やがて自分の国の言葉で何か言った。そしてタクシーはハームズワース公園、帝国戦争博物館、ブルック・ドライブ、それからオーストラル・ストリート、さらにジェラルディン・ストリートを過ぎ、公園の周りを回ったが、それはどう見ても不必要な運転だった。そしてノートンが、道が違うと言って、正しい方向に向かうためにはどの通りを行けばいいかを指示すると、運転手は理解不能な言葉でつぶやくのをやめてまた黙り込み、やがて、たしかにロンドンは迷宮だと言って、道に迷ったことを認めた。
 それを聞いたエスピノーサは、何たることだ、運転手が、もちろんそのつもりもなく、かつてロンドンを迷宮に譬えたボルヘスを引用したと言った。それに対してノートンは、ボルヘスよりはるか前に、ディケンズとスティーヴンソンがロンドンのことを語るのにその比喩を使っていると言い返した。すると運転手はどうやら我慢できなくなったらしい。というのも彼はすぐさま、パキスタン人の自分は、そのボルヘスとやらを知らないかもしれないし、ディケンズ氏やスティーヴンソン氏を読んだことがないかもしれない、それにもしかしたらロンドンとその通りをまだよく知らないかもしれない、だからこそロンドンを迷宮に譬えたのだ、だが自分は慎みや品位がどんなものかはよく知っている、今聞いたところでは、そこの女性、すなわちノートンには、慎みと品位が欠けている、自分の国ではそういうのはこう呼んでいる、偶然にも、ロンドンでも同じように売女と呼ぶ、だがメスイヌともメギツネともメスブタとも呼ぶ、それにそこの殿方、訛りからするとイギリス人ではないあなたがたの国でも呼び名がある、ヒモやぽん引きや美人局や女衒といった名前がね。
 この演説に、アルチンボルディ研究者たちは面食らったと言っても過言ではない。彼らはなかなか言い返すことができず、言うなれば、運転手の罵詈雑言が放たれたのはジェラルディン・ストリートだったのに、彼らが口を開くことができたのはセント・ジョーンズ・ロードでのことだった。そして彼らがようやく口にすることができた言葉というのはこうだった。降りるからすぐにタクシーを停めてくれ。あるいは、僕たちは降りたいので、この汚らしい車を停めてくれ。パキスタン人はすぐにそのとおりにし、車を道路の脇に寄せながらメーターを止めて、客たちに払うべき料金を告げた。そのダメ押しの行為、ラストシーンあるいは捨て台詞は、屈辱的な不意打ちにおそらくまだ身体がすくんでいたノートンとペルチエにとってはことさら異常とは思えなかったが、エスピノーサはついに堪忍袋の緒が切れ、車から降りるなり、前のドアを開け、運転手をむりやり引きずり下ろした。運転手のほうは、これほど身なりのよい紳士がまさかそのような行動に出るとは予想もしていなかったうえに、イベリア人の足蹴の雨が降り注ぐとは思ってもみなかった。最初はエスピノーサだけが蹴っていたが、そのうち彼が蹴るのに疲れると、二人を止めようとするノートンの声にも耳を貸さず、今度はペルチエが蹴り始めた。ノートンはこう言っていた。暴力を振るっても何の解決にもならないわ、それどころか、このパキスタン人はめった打ちにされてから、イギリス人をもっと憎むようになるわよ。だがそれは、イギリス人ではないペルチエにとってはどうでもいいことらしく、エスピノーサにとってはなおさらどうでもよかった。にもかかわらず二人は、パキスタン人の身体を蹴りつけながら英語で罵り、相手が地面に倒れて身を縮めていることなど少しも構わず、踏んだり蹴ったりし続けた。イスラム教なんか尻に突っ込んでおけ、それが相応だ。この蹴りはアルマン・ラシュディから(この作家に対する二人の評価はどちらかというと低かったのだが、ここで彼の名前を出しておくのは適切に思えた)、この蹴りはパリのフェミニストから(二人とも今すぐやめて、とノートンが叫んだ)、この蹴りはニューヨークのフェミニストから(死んでしまうわ、とノートンガ叫んだ)、この蹴りはヴァレリーソラナスの幽霊からだ、この野郎。こうしてパキスタン人は目以外の顔の穴という穴から血を流して意識を失った。


・・・というのは、ロベルト・ボラーニョの『2666』からの抜粋。いちいち、おもしろい。特に「この蹴りは○○から」という最後のくだりは、「これはクリリンの分!」を思わせる(しかし、インターネットで調べてみると、ドラゴンボールに「これはクリリンの分!」という台詞はなく、南海キャンディーズによる創作だろうとの説もある。よのなかにこれと似たような思い込み、取り違えは多々あるし、分家が本家を凌駕するというか、偽物が本物に取って代わるというか、悪貨が良貨を駆逐するというか(ちょっとずつ言いたいこととずれてきたけれども)、そういうことも多々ある)。


このタクシー運転手を襲った悲劇の原因は、彼のもともとの性格や、彼にとって許容しがたい客人の会話、異国人である彼とヨーロッパの知識人である客人たちとの間に横たわる文化の差など、いろいろあるだろうが、何よりタクシー運転手という職業上適切と考えられる「分」を彼がわきまえていなかったことが大きいだろう。
お客を車に乗せて目的地まで運ぶことが職務の第一義であるタクシー運転手にとって、それ以外の、例えば、おしゃべりや、ティッシュなどの景品プレゼントなどはオプションに過ぎず、それらオプションの部分で羽目を外すと、件のパキスタン人運転手のような目にあいかねない。
(そういえば、前の仕事をしていた頃のこと、赤坂だったか神谷町界隈だったかで深夜まで働いて、練馬のはしっこの方までタクシーで帰っていたら、深夜2時か3時だというのに運転手のおっちゃんが、みみず千匹的な下ネタを連発してきて辟易したことがあった・・・)


とはいえ、タクシー運転手といっても、古今東西、さまざまではある。
おそらく、世界で最も著名なタクシー運転手は、『タクシードライバー』のトラヴィスロバート・デ・ニーロ)だろうが、しかし有名な理由はタクシー運転手としての本分を誰よりもナイスにまっとうしたからではなく、彼の仕事とは関係ない課外活動が派手だったからに過ぎない。
こんなタクシー運転手もいる。ほんとうはタクシー運転手としての本分をまっとうしたいのに、仕事の最中の殺し屋を乗せてしまったばっかりに本来の職務以外のいざこざに関わらざるをえなくなる『コラテラル』のマックス(ジェイミー・フォックス)。トラヴィスが仕事以外のときにいきいきしているのに対して、マックスの仕事以外のときのいやいやさ加減といったら、ない。
そうやって思い出してみると、ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』、崔洋一の『月はどっちに出てる?』など、タクシー運転手が主役または重要な役割を果す映画はけっこう多い。


そして、最近、気になるタクシー運転手がきら星の如く現れた。アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワイン・イン・ラブ』の彼だ。
映画の二つめのシークエンスの舞台となるタクシー。そこで、あのタクシー運転手が登場する。



昼は大学生、夜はデートクラブのしごとをする明子(高梨臨)は、クラブの元締めであるひろし(でんでん)に今晩お客さんのところに行ってほしいと言われる。その日に上京して今日中に帰るという祖母に本当は会いたいのに、でんでんによって無理やりタクシーに乗せられる。
彼女は窓の外に流れてゆく街の景色をぼんやり眺めながら、留守番電話に残された祖母のメッセージの数々をイヤホンをして聞く。「あきちゃん、いま、駅の外に出てお蕎麦を食べています」「あきちゃん、駅前で待ってます」云々。この後、彼女はふと思い立ち、祖母の待つ駅前のロータリーに寄ってほしいと運転手にリクエストする。窓から遠くに見える祖母の姿。すると、タクシーの乗客からの視界を遮るように、隣の車線に車が停車する。もうひと目、おばあちゃんの姿を見たい。「運転手さん、もう1周してもらえますか?」そして、ロータリーをもう1周だけして、祖母の姿を目の裏に焼き付けてから、車はロータリーを離れ、指定された目的地へと向かう。AMラジオから高田みづえの「硝子坂」が流れてくるタクシーの中、何かに訣別するかのように明子は唇に紅をひく。タクシーは高速道路を走り、いつの間にか彼女は後部座席で眠っている。。。



このタクシーでの一連の流れは、ひとりの女性が後ろ髪ひかれる思いを断ち切り、たいせつな何かを捨て去って、メタモルフォーゼする様を、キアロスタミ一流の演出でシンプルかつ周到に描いた見事なシークエンスだと思う。なのに(と言っていいのだろうか)、運転席で黙々と運転する運転手、明子からのリクエストに怪訝な表情をしながらも応じる運転手のショットが、(決して彼が口を開くことはないが)ちょいちょい入ってくる。そういうショットがちょいちょい挿入されるたびに、いやいや、あなた、入ってこなくていいから、と思ってしまったことを正直に告白しなければなるまい。
もちろん、彼が出しゃばりであるとか、分をわきまえていないとかいうわけではない。彼は、依頼主であるでんでんに言われた目的地に明子を送り届けるというミッションを粛々とこなし、その途中で本来のミッションから逸脱しない範囲で乗客である明子からのリクエストにも応えつつ、最終的に目的地に着く。いやはや、職責に忠実な、全く見上げたタクシー運転手だ。それに、彼をちょいちょい画面に引っ張りだしてきているのは、あくまでも監督であるキアロスタミではある。だけど、このシークエンスは明子のための時間なんだから、運転手さんは大人しくしててよ、と観客として思うのも人情というもの。


じゃあ、どうしてキアロスタミは隙を狙っては、分をわきまえているタクシー運転手をスクリーン上に引っ張り出してくるのか。
このシークエンスでタクシーという閉鎖空間の中にいるのは明子とタクシー運転手だけであり、明子の祖母は留守番電話に残した声と遠目からのショットでちらりと見える立ち姿のみによってその閉鎖空間に侵入してくるのみである。そこで展開されるドラマの焦点は、祖母とこれから向かう仕事との間、あるいは過去と現在との間で葛藤する明子に当てられている(はずだ)。
しかし、キアロスタミはその演出において、いつもひとがいる空間を大事にしているからだろう、明子が乗っているタクシーに運転手もいるということを決して忘れさせない。そうして明子の時間にタクシー運転手の時間を交差させることで、ちがう時間を生きている二人が同じ空間にいることのむずがゆさを感じさせ、明子がどんな時間を生きているかを浮き上がらせているのだろう。


(このような周到な演出は『ライク・サムワン・イン・ラブ』の随所に見られる。ドライブベルトの修理のため、加瀬亮の自動車修理工場で修理を受けている奥野匡の車の横に、かつての彼の教え子という男性の車がやってくる。元教え子と元恩師はそれぞれの車に乗ったまま窓越しに昔話をしており、切り返しショットによって会話が進められるのだが、教え子目線で撮ったショットの隅に奥野匡の車の後部座席に座る高梨臨の手だけが映っているのだ。二人の会話に彼女が関与することはないが、ある事情で居ても立ってもいられないきもちもあるのだろう、高梨臨はショットの隅っこで手だけをもじもじさせている。このシーンでも、キアロスタミは元恩師と元教え子の間でなされる会話の時間に、こっそりと、しかしちゃんと見てねといわんばかりに明子の時間を織り込んでいる)


かくして、タクシー運転手の鑑とも言えるほど職務忠実で分をわきまえた「いちタクシー運転手」にすぎないのにもかかわらず/であるからこそ(どっちだろう?)、『ライク・サムワン・イン・ラブ』のザ・タクシードライバーの見目佇まい、そして演じている大堀こういちさんの名前、しかと記憶されたのでした。


・・・ところで、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を見てしばらくしてから、香水の匂いをぎゅっと濃縮すると大便の臭いになる(大便の臭いを希釈すると香水の匂いになる、だったかもしれない)、と菊地成孔が言っていたことを思い出した。ということを、今しがた、もういっぺん思い出した。
あちこちで菊地さん自身が触れていることだが、銚子の歓楽街の飲み屋の倅として生まれた彼は、お商売してるお姐さま方に愛でられ、あるいは店で喧嘩する酔客に囲まれ、出前に行った先の映画館に入り浸りする子ども時代を送ったという。当時経験したことの濃密さを大便とすれば、それをいい香りがするまで何倍にも希釈したものが、現在彼が作っている音楽などの作品になっている、ということらしい。
どうしてこのエピソードを思い出したかというと、『ライク・サムワン・イン・ラブ』は大便的でもあり香水的でもあるなあ、ということをふと思ったからだった。たしかに、件のタクシーのシークエンスひとつをとっても、大便性と香水性が同居しており、更にその中で流れる高田みづえの曲ひとつとっても、その両極(どちらかというと大便寄り)を感じさせる選曲になっている。『ライク・サムワン・イン・ラブ』を見ている間じゅう(2回目に見たときは少し冷静になれたが)、ずっとそわそわもぞもぞしていたのは、大便と香水の間を自在に往復するキアロスタミにいいように振り回されたからなのかもしれない。。。