青髭(bluebeard)談義

こどもの頃、絵本か何かで読んだ童話の『青ひげ』は、たしか、とっても怖かった。


青いひげを生やしたおじさん(お城在住)は、結婚をするたびに奥さんが行方不明になっていて、このたびまた新しい若い奥さんをもらいました。彼が住むお城には開かずの部屋があるのですが、ちょっと留守にするというので、新しい奥さんにお城の鍵束を渡したら、あれだけ開けちゃいけないとおじさんが口酸っぱくして言ったのに、好奇心を抑えられなくなった奥さんが開かずの部屋を開けてしまってギャーーーーッ!井戸から貞子が出てきてギャァーーーーーーーーーーーッ!


おぉ、怖かった。。。
以上、シャルル・ペロー原作、一部がリング・らせん化した『青ひげ』でした。


ともかく、そんな朧げな記憶をたずさえて、ある日、エドガー・G・ウルマーの『青髭』(1944年)を見ていたら、主人公のおそらくこのひとが青髭なのだろうと思われるジョン・キャラダインが登場した瞬間に、彼が青いひげ(そもそも、モノクロなので青の色がわからない。ちなみに、モノクロでわかる色はピンク色だけだ。もちろんそのピンク色というのは、カール・Th・ドライヤーの『吸血鬼』の最終盤で医者が埋もれるあの粉の色であり、モノクロの画面上は白色として映っている粉は、心の目で見ると確かにピンク色として見える)どころか、ちょびひげ、あごひげ、無精ひげ等々のいかなるひげも生やしていないので、まず驚いた。どうも、思ってたの違ったらしい。



そのウルマーの『青髭』はこんな話だった。


時代は19世紀、舞台はパリ(ちなみに、ペローの『青ひげ』が書かれたのは17世紀末、そして青ひげのモデルとなったのは15世紀のシリアル・キラーらしい。以上、English Wikipedia情報)。
街では、若い女性が殺される事件が相次いで起こっていた。事件を報じる者、噂する者は、誰もが「また青髭の被害者が云々」と口にしていた。そんな折、とある娘っこ三人衆が、また青髭に女の人が殺されたし、夜中の外歩きは危ないしどうのこうの・・・と夢中になって話していると、出会いがしらでジョン・キャラダインと正面衝突しかける。彼の、顔が長くてハットをかぶった風貌からして、あきらかに怪しげであるし、きっとこの男が件の人物なんだろうと推測して、娘っこの誰かが危ない目に会うのではないかと、早速ドキドキしてしまう。
ところで、彼の仕事は人形遣いで、自ら人形を作り、気のいいおじさん、きれいなおねえさんと3人で人形を操り、歌を唄ってファウストなどの演目を演じている。映画が始まって早々、彼は娘っこ三人衆のうちの最もいい感じの女性を人形劇に招待しがてらナンパし、人形の衣装を作ってほしいと彼女にお願いする。その傍ら、一緒に人形劇を上演しているおねえさんを(ただならぬ事情があるのだろう)絞殺し、その死体をセーヌ川に捨ててしまう。そして、死体が発見されると、またもや青髭による殺人事件と大騒ぎになるパリ。。。
さて、ナンパで知り合った女性は、いつしか人形遣いと惹かれあうようになる。そして、彼がかつて絵描きだったということを知ると、自分を描いてほしいとお願いするが、彼はもう絵を描かないと断るのだった。かつて彼は、生活費も入用なのでいかにも狡猾そうな絵画商の男に言われるがままに絵を描いては売っていたが、とある事情で二度と絵を描かないことを誓ったのだった。しかし、彼が過去に描いた肖像画の女性が青髭連続殺人の被害者であることが発覚し・・・(後略)。



ウルマーの『青髭』でも、ひとりの男が何人も若い女性を殺すというペロー版の設定は引き継がれているが、その他はだいぶんちがう。
ペロー版では、開かずの扉の向こうに隠された青ひげの秘密を知った妻たちが、必ず殺される。つまり、秘密が殺人を増殖させている。
一方、ウルマー版では、絵に描かれた女性が(人形遣いの秘密を知ったからというわけではなく、別のある事情で)必ず殺される。人形遣いの記憶が投影された絵が殺人を生み、それ以上に生きてゐる人物を絵にしてキャンバスに固定するという行為そのものが人殺しに似ているようなのだ。
だからこそ、本編でたった一度登場する、そして人形遣いが人生で最後の絵と決めた女性の肖像画を描くシーンにはウルマーの演出の真骨頂がある。アトリエの室内外に、向こう側に誰がいるのか/何が起こっているのかわからなくするための様々な「目隠し」のための仕掛けが施され、二重三重のサスペンスが進行するのだ。ペローの『青ひげ』のように開かずの部屋を開けるとそこに死体が・・・というようなことはないが、カーテンを開けるとその向こう側には・・・という具合に。このあくまで映画的な旨味がむちむちに詰まったシークエンスで感じる興奮は、あるいはペローの『青ひげ』で新妻が青ひげに追い詰められてゆく場面を読んでいて子どもごころに感じた恐怖にも似ていたかもしれない。


いやいや、そんなことを書きたいのではなかった。
そうだ、ウルマーの『青髭』を見て、ひょっとしてある時期の欧米では、若い女性を次々に殺すシリアル・キラーは「青髭bluebeard)」と呼ばれていたのかもしれない、と思ったのだった。


そして、『青髭』と同じ時期に見たチャールズ・ロートン狩人の夜』(1955年)にも「青髭」という台詞が出てきたので、どうも先の説はやっぱり確からしいという気がする。
1930年代のウェスト・ヴァージニア州を舞台にした『狩人の夜』では、ロバート・ミッチャム演じる似非伝道師ハリー・パウエルが女性ばかりを狙うシリアル・キラーであり、あの恐ろしいまでに美しい「狩人の夜」を幾晩か経た後、最終的に彼は捕まって裁判にかけられる。ちょうどその頃、街では、リリアン・ギッシュが子どもたちを守りながら物騒な通りを大股で歩き家路を急ぐ一方で、あの似非伝道師を死刑にしろとばかりに、群集が手に斧や鍬などの得物を持って「青髭bluebeard)!」と憎々しげに叫びながら街を練り歩くのだ(このシーンには、ロバート・ミッチャムが「狩り」をするときの静謐な恐怖とは全く別種の恐ろしさがある)。



・・・という「青髭」症例を幾つか見てみると、「青髭」と呼ばれるシリアル・キラーには何かしらの共通点があるのかもしれない。
ちなみに、フリッツ・ラングの『M』(1931年)の殺人鬼はあくまで「M」であるし、ゾディアック事件をモデルにした諸作のうち、デヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』では殺人犯は文字通りゾディアック、ドン・シーゲルの『ダーティーハリー』ではスコルピオと呼ばれている。みんな、「青髭」っぽくない。特に、最近の映画における連続殺人犯はゾディアックっぽいのが多く(『M』は昔の映画だけどゾディアックっぽいね!)、青髭っぽさは現代ではとうに失われてしまったノスタルジーの対象なのかもしれない。都市化とか人々の流動性の増加・匿名化とかいった社会的な背景ももちろんあるだろうけれど、われわれが感じる恐怖の種類が変わってしまったということなのか。。。


※ところで、ロベルト・ボラーニョ『2666』の第4部「犯罪の部」では、アメリカと国境を接するメキシコの街で、若い女性が次々にレイプされ殺されるという「連続殺人事件」が200件以上記されている。しかし、ここにはもはや「青髭」や「ゾディアック」といった個人は存在しない。ボラーニョは、彼女たちを犯し殺しているのはメキシコというラテンアメリカの中でも特異な土地であるとでも言いたげに、淡々と、しかし全ての被害者や関係者に名前をつけることを怠らず、事件を積み重ねてゆく(園子音が「数」という詩を書いているが、数をかぞえる本当に正しい方法は、ボラーニョがしているようなやり方ではないか)。『2666』で描かれる恐怖は、犯人を捕まえれば恐怖の源を断ち切れるというようなものではないが故に、より根源的に恐ろしい。。。