ポスト2666症候群

「ポスト2666症候群」
(1) 『2666』を読んだ後にこころにできた空洞を、他のどんな本を読んでも埋めることはできないこと。
(2) 約2kgの『2666』が入っていたかばんに他のどんな本を入れても、かばんが軽く感じられること。


約850ページの5部構成、現代のヨーロッパとメキシコ、そして第2次大戦前以降のドイツと東部戦線を舞台とするこの大著を読むことは、地球一周の長い旅、あるいは数十年以上にわたる時間旅行をすることに似ており(とテキトーなことを書いてしまったけど、もちろん地球一周の旅をしたことも時間旅行をしたことも浪漫飛行をしたこともないので、ほんとうのところはたぶん似ているんじゃないかなあという気がするだけでして)、にもかかわらず、読み終わった瞬間に「あ、ここから話が始まるんだ」と思わせられる、なんとも不思議な宙吊り感。856ページ以降に、時代にして1997年以降に、おそらく本編の長大さと同じくらいの大きな余白が残されているのだ。



2666

2666


都市小説にして犯罪小説、教養小説にして歴史小説とさまざまな顔をもつこの小説を読んだ後も、惑星が大きな引力をもつ恒星のまわりを回り続けるように、残された大きな余白が求心力となっていつまでもこの本に惹きつけられる。離脱症状
おそらく、『2666』の読後、ポスト2666に読むべきは『2666』なのだろう。そうやって何度も『2666』を繰り返し読んでいるうちに、2666依存症になってしまう・・・あぶない、あぶない。


ならば、重さには軽さを、地球一周には宇宙日本ニコライ堂を、というより、まったく出鱈目な小説でも読んで、離脱症状をごまかしてみたらいいんじゃないか、そうだ、ごはんや野菜を腐らせてほったらかしにしてるので部屋がとても臭い女のひとについての短篇小説をつまみ食いしてみよう・・・


武田泰淳『ニセ札つかいの手記』所収の『女の部屋』より)

「もしも、一軒自分の店がもてたら。どんな小っちゃい貧弱なものでもいいから」裂けた腹から古綿のはみ出した蒲団と、桃色が垢と埃で鼠色にかわりかけた毛布の間に、けだるい身体をのばしながら、自分の未来を彼女は空想した。「やはりお酒の店がいい。現金主義にして。戦争がはじまれば、みんなヤケになるから、お酒を飲むんじゃないかな」
 そんな時、かすかな蝋燭の火が遠くまばたくようにうす明るい前途がチカチカとあらわれかけるのであるが、すぐまた周囲のどす黒い闇がドッとおしよせてくる。朴さんは月給を今月もくれそうにない。たった一枚の夏服はビリビリに破れたし。占い師は三人が三人とも「用心しないと変死しますよ」とおどかしたし。階段からころげ落ちて気絶したとき打った腰はひどく痛む日がある。それに弟が口ぐせにする「革命」が今に起きたら、市街戦がはじまって酒場も喫茶店もなくなるにちがいない。そうすれば行商もできないし、靴みがきもできない。「俺は世の中が右になっても左になってもダメな男だ」と広言しているくらいだから、山川はそんな時になれば自分をかばってくれる力などがあるわけもない。たよりになるのは十八歳の給費生である弟だけだ。あの弟が偉い革命家にでもなってくれれば、姉ちゃん一人ぐらいは何とか救ってくれるだろうけど……。
 それでもやはり彼女は夜店に並ぶおでん屋でもいいからと、その夢を棄てかねた。その相談を持ちかけると店の名だけはすぐつけてくれる年寄の客があった。「牡丹亭じゃな。これならいいよ。牡丹亭じゃな」風流な老人は何度もその名をくりかえした。
「わたしの顔が牡丹に似てるってわけかなあ」花子はその屋号の由来を山川にたずねた。
「牡丹灯籠から思いついたんじゃないかな」山川は花子のいきごみをうす笑いでつき返すようにそう答えた。
「牡丹灯籠って?」
「怪談のあれさ。死んだ女が男を想いきれずに、夜になるとカランコロンと下駄の音を立てて通って来るのさ」
「あれは幽霊じゃないの」
「だからさ。幽霊になって通ってくるぐらい執念ぶかい……」そう言いかけて山川はすぐ「つまり情の厚い女の心、その意味だろうね」と言いなおした。
 しかし男の口ぶりに熱心に注目していた花子はいきなりサッと顔色を曇らせた。
「イヤよ。幽霊なんてイヤよ……執念ぶかいなんて、よくも言ったな」そして悲しげに目を見張ると例によって、男の上半身をぶちはじめた。ひじから先を垂直に曲げ、肩よりすこし後へそれをひいて、二、三回ぶってはもとへもどす、その姿勢が幼女の喧嘩に似ていた。「そんな風にわたしのこと思ってる。好きじゃないんだな。やっぱり、だまって、そんな風に考えてるう」
 腕や肩を殴られるにまかせていた山川は「ちょっと待ってよ。もしかしたら中国の牡丹亭還魂記からとったのかもしれないんだ」と言った。
「それはどんなの」疑りぶかそうに男を睨みながら、花子はたずねた。
「その方ならめでたい話なんだよ。その方なら、女が一度死んでまた墓の下から生き返るんだから大丈夫だよ。そしてしまいに想う男と結婚するんだから」
「ほんと?そんならいいけど。死んでまた生き返るんなら」女はやや機嫌をなおした。


えっと・・・次、いってみよう!(いかりや長介口調で)