未知との遭遇

ふだん、わたしたちは、さもあなたのことわかっていますよというような顔をして、話をしたり、メールしたり、つぶやいたり、いいね!したりしている。


だけど、ふと我に返ったときに(「我に返る」と何気なく書いたけど、どっちが我でどっちが我じゃないのかは正直わからない。そう言えば、マキノ雅弘『浪人街』の土壇場で、酒酌み交わした友だちを助けるために、金の縁しかない仲間を裏切る河津清三郎が「表返っただけよ!」と言っていたけど、そんな感じ)、ほんとうは何にも通じてないしわかってないよね、と思うことがある。


そして、一旦、そう思ってしまうと、とても孤独を感じることになる。


・・・ということを考えていて、ああ、スピルバーグの『未知との遭遇』ってそういうことだったのか、と思い至った。


宇宙船が地球にやってくる。彼らに対して友好的であることを示したい地球のひとびとは、光と音で宇宙人をお出迎えする。そしたら、宇宙船も光と音で答える。七色の光と8つの音階によるコール&レスポンスは、徐々に加速してくる。


素直に考えると、光と音だけではあるけれど、「仲良くしようね」というメッセージをお互いに出し合って、それなりに通じてはいるんだろうな、という理解になる。実際、その後、宇宙人は船から降りてきて、宇宙に行きたいかー?とウルトラクイズのように宇宙人についてきたい地球人を募って、リチャード・ドレイファスが家族を捨てて船に乗り込んでゆく。光と音の応酬があった後、求人と応募があって、取り引きが成立したんだから、たぶん一連のやりとりは通じ合ってるんだろうなと考えた方がよさそうだ。とりあえずは。


さて、ふと我に返ってみる。表返ってみる。
そして、地球のひとびとと宇宙人とがやりとりしていた光と音のメッセージは、ほんとうは全然通じてなかったのかもしれない、と考えてみる。



このシーンを改めて見ると、地球人と宇宙人が遭遇して挨拶してるよ!という興奮はそれほど感じず、話通じてますか?セコム入ってますか?という疑問がふつふつ湧いてきて、むしろ滑稽な印象を受ける。


かもめかもめの「あの子が欲しい」「あの子じゃわからん」みたいなやりとりであれば、問いに対する答えとして成立してるから、まだましだ。
だけど、「お水のおかわりはいかがですか?」に対して「どですかでん」と答えるような、あっち向いてホイ的な全く通じてないやりとりだったら、目も当てられない。そして、そっちの可能性の方が高いんじゃないかとも思う。


「地球へようこそ」「どですかでん」「われわれは温かくお迎えします」「どですかでん」「どこからお越しですか」「どですかでん」「長旅でお疲れでしょう」「どですかでん」「夜も更けていますし、国道沿いのモーテルに部屋がありますので、そこでゆっくりお休みください」「どですかでん」・・・


と考えると、この地球人と宇宙人とのメッセージの通じ合わなさは、滑稽を通り越して、悲しい。伝えたいのに、伝わらないこの気持ち。ため息が出てしまう。
未知との遭遇』は、説話的には家族もいるのにそれを捨ててまで宇宙船に乗り込むリチャード・ドレイファスの地上での孤独さが描かれていると思うのだけど、それよりも光と音でやりとりするたったひとつのシーンによって、わたしたちが根源的に抱えている孤独をまざまざと見せつけられる気がするのだ。


まあ、そんなこと言って「わたしとあなた、わかりあえていますか」という疑問を常に持ちながら仕事したり周りのひとと話したりしてると、日常生活に支障を来たすだろうから、いまいちど、裏返ろう。
明日は月曜日だし。