動くな、死ね、甦れ!

来年就職したいところに提出する小論文を書こうとして、乳として、あ、まちがえたもとい、遅々として筆が進まず、今日いちにちウンウン唸った挙句、ほんとうにつまらない文章しか書けなかったことに、心底がっかりしているサタデー・ナイト、あと2日経てばマニック・マンデー。以前は、知性と感性の両方に訴える、ロジカルでいて色気のある文章を書けた時もあったのに。。。


どうしてこんな体たらくになってしまったのか。淑女は何を忘れたか。


思っていることを書こうとして書けないのは、書かなくなって書き方を忘れたからだと自分を納得させていたけど、じつは思うことがないから書けないんだと気づいてしまった。我思わない、故に我ない。だから、まず、思うことにする。。。



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1ヶ月ぐらい前だったか、たぶんテレビのドラマで、「にんげんは何かがどうかするとブラックホールになってしまって、そうなるとどうにかなってしまう」というようなことを誰かが言っていて、「ブラックホール」という言葉以外なんにも覚えていないのだけど、それはまったくその通りだと思ったことがあった。ふだんから「思う」ということを雑にしかしていないので、こういう「これがああしてこうなって」みたいな雑な記憶しか残らないのだろう。。。



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本題とは関係ないが、そのことと関連して、最近、ブラックホールがたくさん見つかったというニュースがあった。
100億光年のかなたに、250万個のブラックホールが見つかって、ほうしゅつする光の量がたいようの100兆倍で・・・という話。NASAが発見したということだけど、こうやって何でも「億」「万」「兆」と話をおっきくするのは子どもの常套手段だし、実際わたしも童心に返って「おつり100万円な」とか言うことがあるので、これは子どもが盛って作ったオーソン・ウェルズ的なうそニュースなのではないかと推測しているのだ。。。



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そのこと、というのは、ブラックホールのことだけど、そのことと関連して、ついこの間、谷崎潤一郎賞を受賞した高橋源一郎の『さよならクリストファー・ロビン』という本のいくつかの短篇を読み返して、それも何度も読み返して、ブラックホールのことを考えていたのだった。


この本が発売されて間もなく、最初に読んだとき、死だ、と思った。


ひとは、死んでも、そのひとのことを覚えている誰かがいる限り、その誰かのこころの中に残っている。しかし、その誰かがみんな死んでしまって、誰も最初に死んだひとのことを覚えているひとがいなくなったら、ほんとうの意味で死んでこの世から消えてしまう・・・ということを時々考える。そして、この本にはそういうことが、わたしたちはどうやって死んでゆくのかということが、たくさん書いてあった(と思った)。


そして、最近読んだら、ブラックホールだ、と思った。それは単に、このところ身辺がブラックホールづいていたからというだけで、実のところ、死とブラックホールはよく似ている。まわりのあらゆるものを吸い込んで、不可視で、正体不明で。。。


さて、ひとつめの短篇で表題作でもある『さよならクリストファー・ロビン』は、「ずっとむかし、ぼくたちはみんな、誰かが書いたお話の中に住んでいて、ほんとうは存在しないのだ、といううわさが流れた」という文から始まる。そのうわさを聞いたお話の中の登場人物たちは、次々に姿を消していく。まず最初はいじめられてた海亀を助けた元漁師から、という具合に。その後、自然界から星や物質や生物が少しずつ減っていくことに科学者が気づく。そして、しまいには「あのこと」が起こる(「あのこと」とは何だろう?ちなみに、この小説が発表されたのは3.11の少し前だ)。


章が改まり、「ぼく」やピグレット、ティガー、クリストファー・ロビンたちが登場する。
「ぼく」は窓の「外」を眺めていて、世界が「虚無」に侵されてゆくのを見つめている。しかし、ある日、「虚無」に対抗するために、例のうわさを逆用し、「おれたちが、誰かさんが書いたお話の中の住人にすぎないのだとしたら、おれたちのお話を、おれたち自身で作ればいいだけの話さ」と、みんな夜になるとお話を書いてから寝ることにしたのだ。すると、次の日にはお話どおりのことが起こった。最初はみんな喜んだ。しかし、ひとり、またひとりと、疲れてお話を書くことにやめた者たちが消えてゆく。。。


「虚無」というのは、いかにも死であるし、またブラックホールでもある。死のことが書いてあると読んでも、あるいはアナロジーとしてのブラックホール的ななにがしかを読み取っても、まあよかろう。
しかし、どうもここでは「話を書く」ということについても書いてあるようだ。「話を書く」ということが、死やブラックホールとしての「虚無」に抗する手段であり、「話を書く」のをやめてしまえば「虚無」に屈することになる。あるいは「話を書く」ことが「うわさ」に真実を対置して「ぼくたち」が存在しつづけられる方法にもなる。だから、「話を書」きつづける。そういう、話を書く小説家としての宣言、意思の表明であるようにも読み取れる。と思うと、ちょっと感動してしまう。


・・・などと思って書いてをしていると、「虚無」に食われかけつつあった自分が少しずつ戻ってきた、気がしないでもない。


思え、書け、あれ!
動くな、死ね、甦れ!
ヨーソロー、ヨーソロー!



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ところで、長年にわたって女子サッカー選手が胸でボールをトラップしつづけていると、おっぱいに重大なダメージが残るのではないかと、ヤングなでしこのひとたちのことを心配しているのだけど、大きなお世話かな。。。