夢から醒めたら

しばらく長い文章を書いていないせいか長い文章を書けなくなってしまったので、ためしに長い文章を書いてみむとてするなり・・・



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それにしても、夢の世界にまどろんでいるときの心地よさと心もとなさ、そして夢から醒めたときのつまらなさと心安らかさ。あの不思議な感覚は、いったい何に例えられるだろう・・・



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さて、じぶんも便乗ライジングします。


ジョーカー=ヒース・レジャーの魅力にもってかれた『ダークナイト』の続編であり、いちいち説明しなければ気が済まないクリストファー・ノーランの鈍重さが退屈極まりなかったにも関わらず切って捨てるわけにもいかない『インセプション』の次回作でもある『ダークナイトライジング』。


果たして緞帳が開くと、上映前の期待と不安を足して2で割ったやっぱり感が押し寄せてきましたが、それでも三部作の幕引きとして、登場人物たちの「その後」をノーランらしいクロスカッティングで畳み掛けたラスト・シークエンスのあのシーンを見たとき、ノーラン作品の愛すべきエトセトラに気づかされたのでした。
すなわち、長い三部作という夢から醒めるのと同時に、執事アルフレッドの望んだ夢に没入する瞬間の感覚。それは、今まで何度も味わったことのある懐かしい既視感を伴うもので、夢と現の渚に降り立ったかのような感覚でした。


その一方で、『ダークナイトライジング』の冒頭のシークエンスで繰り広げられた落下と浮上のアクションを見たときにも、『インセプション』で落下の瞬間を微分的に引き延ばすことによって得られる無重力状態を執拗に描いていたノーランの「らしさ」を改めて認識しました。
今思うと、あの無重力状態こそが、『インセプション』での幾層にもわたって夢に落ち夢から浮上する運動がもたらす心もとなさを表象しているような気がするのです。


近作では石積みする石工のように映画内の物語世界のアーキテクチャーをひとつひとつ積み重ねて構築するがあまり、その愚直さ・鈍重さが映画に必要以上の時間的長さをもたらし、見る者に退屈さをもたらしているのだろうとは思っていたものの、ノーランの夢における運動には、それすら必要悪なのかもしれません。


ノーランの夢は、ブニュエルのどこまで行っても無間地獄のような夢ではなく、また、アラン・レネの『去年マリエンバートで』の合わせ鏡のような夢でもなく、上下の構造をもった夢です。律儀なフロイディアン/マルキシストのように、意識/無意識、上部構造/下部構造といった図式的な構造を(『インセプション』の4層のように)再現せねば気が済まないとの強迫性すら感じさせます。わかりやすい構造があるということは、端的に言ってつまらないし、構造を構築する過程まで飛躍なく逐一書き込まれると、つまらないの2乗で欠伸が出てしまいます。ノーランの大きな欠点のひとつはそれで、『ダークナイトライジング』で肝心のダークナイトバットマンがライズする瞬間の「ライズしてなさ」も、自由な飛躍のできないノーランの宿痾ゆえのものではないかと思います。


しかし、そのつまらなさと引き換えにしても十分におつりがくるほどに、ノーランの描く夢への落下/からの浮上の際の無重力状態は甘美で魅力的に思えるときがあります。夢そのものの退屈さないしはおもしろさはさておき、夢に落ち夢から醒める瞬間が満ちているだけで満足というか。
インセプション』は夢そのものの是非はさておき、夢に落ち夢から醒める瞬間が繰り返し訪れるという一点だけで、どこか見過ごせない魅力をたたえていたのだと、今になってみれば思いますし、更に遡れば、あの『メメント』は10分ごとに夢に落ち夢から醒めるという悪夢的状況を執拗に描いた映画だと言えるのかもしれません。

そして、『ダークナイトライジング』でアルフレッドが最後に見た景色は、まさにシリーズ中で最も甘美な瞬間を味あわせてくれるショットでした。『ビギンズ』から始まった計458分の長きに渡る冗長な悪夢から醒めたかのような、あるいはいつまで続くと知れない悪夢のような現実からようやく夢の世界に退避したかのような・・・



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とはいっても、最近の夢を描いた映画ではフランシスー・フォード・コッポラの『ヴァージニア』がベストだと思いますが、それについてはまた日を改めて・・・